古代史考 北九州から畿内へ
https://twitter.com/1st64503291/status/1321448033733603328
10月28日
大和三山と周辺遺跡との関係を地図上に表わしてみると、耳成山の真南に藤原京の中心部、さらに下って、高松塚古墳、キトラ古墳が位置します。
墳墓は都市の外に置かれるのが常とはいえ、都市の中心線を逸脱しない位置にある高松塚古墳とキトラ古墳は、このときの都市計画に重要な役割を果たした渡来系高官の墳墓かと推測されます。もしかすると鎌足(阿部山にあるキトラ?)、不比等(高松塚?)の墓だったりするかも知れません。
11月2日
九州王朝説研究がかなり進んでいることをついぞ知りました。それによると、7世紀後半、いやもっと後世まで北九州のエリアだけで遺跡や文献の観点から説明がつくように思いました。では、どうして畿内に同時並行的に同様の歴史が規模こそ違えども営まれたのでありましょう。
邪馬台国九州説、畿内説のそれぞれに私はさほど詳しくないのですが、何かの量りごと(大量(おほばかり))が介在したのではないかと推測するのが適切なような気がしまして、前記のようなまったく異なる観点からの考察をいたしてみた次第です。
現代の古代の歴史研究に対して極めつけのようにして、室町時代末期の岩屋梓梁が、全国を飛び歩いて遺跡などの捏造をして回ったといった奇抜な説も出たほどに、その気になれば新造の歴史を未来に向けて発信できてしまわないかと、ふと思ってしまいます。
そんな閑人で酔狂な奴がいるのかと、この忙しいはずの世間に、と羨ましくなる方も多いでしょうが、意外と天上人のようなプランナーが昔もいたとすれば。資金力があり、その道のテクノクラートや労働力を多く雇い入れるほどの器量があれば如何かと思うような次第です。
これまた詳しくはないのですが、岩屋梓梁は石屋真梁(せきおくしんりょう)ともいい、音読によっては正体不明なるも、訓読容易につき、あっと思えてしまうのは私が単細胞だからでありましょうか。石工職の師から弟子への伝統的流れを想起してしまいます。
そのような歴史の担い手のような者がいれば、きっと世間を鳥瞰できるほどの知識があり、歴史のプランニングを率先してやれたのではないか。
北九州に鷹羽の神あり。いっぽう畿内にヤタガラスあり。共に鳥瞰できるステイタス・鳥であることを示し、後者は高木の神が派遣主とされています。
高木の神は天照大神の詔により神武天皇に軍師的なヤタガラスを贈ります。私は卑弥呼が高い楼閣に一人いて、ひとりの下男が民衆に卑弥呼の託宣をもたらしたとのこと。この伝令役の男が鷹羽の神であり、後に高木の神とされた可能性を思います。鷹羽≒高木ですね。また鷹≒烏です。
九州の英彦山、求菩提山には天狗伝承があり、彼らは修験者風の装束をしています。畿内の熊野は修験道のメッカとも言われます。私はそのいでたちから思いますに、すでに何度も書いてますように、敬虔なユダヤ教徒とみております。北九州と畿内を繋ぐは、山駆け山歩きを得意とした彼らかと思います。
教徒たちは本来は個人修行です。しかし、渡来してきたわけですからリーダーは必ず居るでしょう。もしそのリーダーがここで展開すべきプランを持っていたら、あるいはプランを練ったとすれば。まず彼らは地の利をくまなく調べたことでしょう。そして、ある特性に気付いたかもしれません。
うん。これはいけるぞ。どうやらこの島々はもっとはるかに続いている。この地域にとどまらず、従えることのできる場所まで展開しよう、よければ一番大きな島の真ん中にドシンと腰を据えたらどうだ、と考えたかどうかはわかりません。とにかく、地の隅々まで人数を動員して調べたのではないか。
そして彼らは中東出自のテクノクラートでもあったことから、精巧な日本地図を作ったかもしれません。秀真伝に、天照神が勅命で建御雷男神に国絵を作らせたと出てきます。その後、国土計画が練られたかも知れないと思います。
天孫降臨のとき
天の浮き橋に、浮きじまり、反り立たして、”筑紫”の”日向”の”高千穂”の霊じふる峰に天降りまし き。・・・・ここに詔りたまはく、『此処は”韓國”に”向ひ”、”笠紗の御前”に”まき通り”て、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。かれ此処ぞいと吉き地』と詔り たまひて、」
“”を施した地名を暗号とみて、これを直線で繋いでみると、九州に大きな短辺172Kmの直角二等辺三角が求まりました。それを畿内に同様の図形が求まらないかとみたのが先ほどの図形で、約172Kmは淡路の多賀–伊勢内宮の距離に、その中点が明日香で、この真北に奈良、京都が位置するのでびっくり。
神話時代とは、世間からは高度でまるで神々の所作と思えるような歴史時代を言うわけです。その託宣がシャーマンからもたらされたなら、古代人は神の仕業を思い、重い労役にも進んで参加したかと思われるのです。
古代の歴史展開は九州で果たせたとはいえ、列島を見据えた為政者は志を大きくしたかと。
今日は、ある歴史研究会の方から、北九州にあった倭国とその東、本土側にあった東鯷国のことについて知りました。https://bit.ly/324O4Um
銅鐸文化圏を担ったと目され、前漢書、後漢書、三国志などにまで書き及んでいるこの存在を、戦後史学はどうやら無視してきた感があります。もしかすると
このことが邪馬台国の存在説の二分を生んでいるのかもしれないと思ったりもします。
同ホームページの主催者の福永晋三先生は、豊の国古代史研究会の活動の中で、北九州だけで8世紀頃までの歴史が古史と数ある遺跡によって説明がつくことを語られています。
畿内の側は九州は一時逗留地のように考え、北九州説ではそこだけで奈良時代それ以後までが説明できるとなら、まるでパラレルワールドがそれぞれに展開したが如き思いになってしまいます。何とかこの両者の並立を巧みに説明できる仮説がほしいと思う次第です。
銅鐸文化圏といえば、私も自説において取り上げたことがあります。
https://red-avian.info/monoomoi/qbl-4.html#11
それは饒速日命と物部氏がその持ちきたした知識によって斬新なデザインの銅鐸を作り民衆を魅了したことを推測するものでした。それが東鯷人の居住地として中国の複数の史書に登場するのです。
このかなり飛躍した拙説の観点から、九州、畿内の両方の独自に見える展開をうまく統合できないか、ただいま頭を捻っているところです。いや、鳥瞰的観点に立てば、まるでできないことではない気がします。やれます。
盛星
@Morusuta1
11月3日
僕もそう思います
力強いお言葉
ワクワクしてきます!
11月4日
鷹飛びて高木の知恵を下ろしましょ 民よ問ひたきお題をこれへ
その昔、高楼の上に一人座し、天照大神の託宣を受けることに専念した日の巫女あり。その託宣は上からの一方通行ではなく、民からの真摯な問いや願いを聞き届け、それを天照大神に問うて解を得たのではありますまいか。その託宣を民に届ける役目の下男あり。ただ一人、その役に任ぜられる。
それを神格化し鷹羽の生えた神といい、高木にいて高きから知恵を下ろす高木の神とも称された。そのいでたちは身のこなし軽やかな修験者服。山野を駆け巡ることを修行としていた不思議の民・山人・修験者と同じ装束で、山人たちと連携をとりながら全国各地を諜報して回った特殊技能を持つ者たちあり
彼らを物部と言ったものではなかったか。
修験者は前身がユダヤ教徒。その装束、行動の類似が指摘できる。中東の地を立ち、安心し神との連携を図ることのできる地を目指した者たちだった。その果てに極東の島々あり。前5世紀頃には日本列島に至り、先住縄文人と和合して暮らしていたことだろうか。
むろんこうしたことはみな仮説にすぎません。その旨了解あれ。
むろん彼らは習俗の特殊性により、山野に修行の場を求め展開。縄文人の習俗にも影響を与えたことだろう。
その後、歴史を促進する計画を携えた者たちが渡来した。それがニギハヤヒと技能集団・物部氏だった。
彼らはすでに神与の役割を携えていたユダヤ人とそれを司祭する神官たちと工作技能集団であり、日本列島に失われた同族の居ることを予め知ってしまった人たちだった。倭人の中に混じり、また純粋性を保ちつつも、目的のものを探して南下していた。前2世紀頃のことである。
11月9日
盛星さん、私は只今、歴史研究会というツイッター内で結成されたグループで、歴史ばかりでなく多種多彩な話題で、やり取りしています。もし参加を希望されるなら、会長に願い出ます。
今日やっとバックアップをブログに上げたので、始まりから今朝までを一覧できます。
https://bit.ly/2GFlEsH
盛星
@Morusuta1
11月9日
おはようございます!
この分野の事は全く無知で
拝読させて頂く事がメインとなりますが
それでも参加させて頂いても大丈夫ですか?
もちろんそういう方もおってですから、なんら問題ないと思います。私はその中で、申し訳なく思いつつも、思いつくままに書き込んでますが、なんとかみなさん耐えてくださってます。あなたが嫌になったら辛いですけど。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
盛星
@Morusuta1
11月9日
ありがとうございます
是非参加
よろしくお願い申し上げます。
m(_ _)m
OKになりました。