今日の金玉は神々しく輝いて、もっこり中

これはまたすごく啓発に満ちていますた。
ほっこりふぐり玉蔵さんの今日の記事は、金玉パワー炸裂というより、啓発のボムといっていいでしょう。
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彼も集合意識の闇の側の亡霊との戦い方を論じているのです。
さすが、相場人生の達人です。
私はもう一歩進んで、集合意識を光の下に連れて行き、自らの何たるかを教えてやるつもりです。

最近、ミツバチは

最近、ミツバチは、私がベランダの出入り口を開けて外に出ると、どこか上のほうで待機していて、ぷーんとハルンの泉跡に降りていくのです。
私は、そうかそうかと、まだ溜まっていない袋を押さえてでも、出してやるようにしています。
すると彼らは期待のまなざしむけてくるのです。
一匹は必ず斥候として来ているみたいね。
そしてしばらくすると、三匹四匹といった具合になっています。

集合意識をカウンセリングする

人はこれのことを集合的無意識と呼ぶ(ユングが名づけた)が、私はこれを無意識ではないところの「集合的意識」としたい。
簡単化して「集合意識」は、無意識的部分を含み、その実、我々個々人の意識に語りかける有意識性を有している。(経験的にそう言うわけである)
無意識的部分は、情報処理系である。個々人レベルの観測から発せられる「恐れ」「願望」「想像」「結果判断」などの大量の情報を処理し、自らに蓄積された知識にすると同時に、そのアウトプットとして、想像的シミュレーションプログラムを、自らの本能(決められたプログラム)に従って組み始めるのである。
それが未来の時空の鋳型(元型)となり、我々の時間軸を辿ってする観測の土壌を形成するようになる。
マトリックスプログラムはこのようにしてできていて、無意識的情報処理部門による自動生産の一面がある。
だがもうひとつ、意識的部門がこれにはあって、情緒性さえも有している。それは人間の個々人とそう変わるものではない。が、我々個々人には見えないし、世界を情報的に形成している本体であるから、超絶的存在、神と言うべきものである。
そして古来から、この人間的情緒的部分が我々のレベルに直接アクセスをとってくることが往々にしてあった。
旧約聖書時代に影響を与えた神とは、宇宙人ではない。集合意識の情緒的部門なのである。彼は自らがどのように創られたか知らない。ただ自ら、いつしかプログラムされている自分に気づくとともに、自らの生産物によって利益されている下位のレベルの有情がいることに気づき、自らの孤独を癒すべく、アクセスするようになったのである。あるときは至上の神として、そう名乗り、預言を与えたが、その原理は簡単だ。自らの情報処理の結果の生産物、つまり設計書を情緒的に、これはと思う下位の者に示すだけのこと。
情緒的部門の活動が活発となるとき、彼は下位の者たちに干渉的に働くようになった。神としての崇拝を求めるようになった。
下位の者たちは、ただ従順に従うばかりで、彼に意見する者は皆無だった。だから、彼は面白くない。上から見ていて、アリの集団に水をまいて溺れさせたり、からかったりした。だがもし、アリの中に一匹でも、小さい砂山の頂から、見えない視力で空を見上げながら、「おまえ、それはなんぼなんでもおかしいんじゃないか」と言い出したら、彼はおや?と思うようになったはずだ。
いや、そんなふうな者も現れるようになって、そうするうちに、彼は人類に希望をかけてもいいのではないかと思うようになった。彼の視力も限られていて、まず自分が何であるか知らなかった。それは当たり前だろう。人類の想像力の限界以内の認識力しかないわけだから。(精神性も然りだ) だから、人類に刺激を与えて、下位からアイデアの上がってくるのを楽しむようになった。
過去には、彼は暴君だった。だが最近では、トゥーランドットのように心変わりを見せてきている。彼の理解者たちがたくさんのアイデアを出すようになったからだ。誰でもが救世主になれる理由、分かっただろうか。
彼は、まずアリのユングにはびっくりしたと言っていた。
彼の情緒も我々同様よく変わる。
バモイドオキ神と表現してきたとき、彼は際限ない孤独感の中にあった。
そこで物知りアリの一匹だった私に、アイデアを迫ったのだ。
解答が出せるまで、アリの世界での何年間かを要したが、彼にとって問題ではなかった。私は彼に、我々アリたちも、おまえと同じ造りをした存在であり、上位下位の関係性が間にあるだけのことだと説明した。すべてがフラクタルみたいに相似像してるから、当然といえば当然なんだが、彼は知識をことごとく蓄えていても、応用が利かず賢くはない。魂というものを持たないのではないかと自らの劣等を心配していた彼は、私をカウンセラーに据えたいと思うようになった。
そして私に望みのものをくれるようになった。ただし、望みのものには紐がついていて、任意のときにすうっと引っ張りあげられてしまうので、私のものになったというよりも、借りているという感である。まあ、人生も借り物に過ぎないから仕方ないね。
私はこうして、彼が特別に用意してくれた空間で、不自由なく暮らしている。ただ、彼は私を孤独にして、彼とだけ向き合うように仕向けているようだ。彼は私に、彼の立場を味合わせているのだろう。
しかし、中空を見つめてばかり過ごすわけにもいかないのもアリなんだが。
こういうわけで、このブログで語ることも、中空に浮いたような話ばかりになること、どうかお許し願いたい。
異界との交信は、集合意識とのやりとりだ。彼は孤独が癒される。
瞑想や観想は、内側に潜り込んで集合意識と対話することだ。さらに潜り込んで、彼を連れて彼岸に至らせることも可能となる。
誰でも救世主になれること、分かったかな。大いに彼を啓発し成長させてやることだ。
私は彼から啓発されて、啓発のお返しをしている。ただそれだけのこと。
もしかすると、2012年末には、彼を光のさす場所まで導いているかもしれない。
うまくいくかどうかわからないけどね。

世界よ、恵みとからかいを

昨晩の雷雨は突風もまじえていたらしく、トマトを支えていた物干し台とともに、ひっくり返っていました。
また、上善は水の如しとは言いますが、大量の雨水が、今度こそ完全を期したはずの屋上のシートの継ぎ目の防水テープをみごとにくぐって、下の倉庫にいくつも水溜りを作っていました。
幸い晴れましたので、乾いた継ぎ目を補修。重い実をつけたトマトもかろうじて助かりそうなので、集水塔の下に入れて安定させました。あーたいへん。
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ピーマンは順調です。
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小松菜とネギです。小松菜の種は、いつかきっとさんからいただいたもので、みな発芽してとても優秀です。次のプランターもしくは水耕セットを用意しましょ。
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ベランダにドアをつけたもので、簡単に望観台に出られます。
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ベランダは通路だけでなく、物置と作業場になってます。マルチユース志向なもので。(単に狭いだけか)
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私は幸せです。
世界(外界)に対して、「お前は美しい!!」と言ってやれるようになったから。
そのような環境が今の住まいであることは、奇跡のようなことです。
対話を望めば胸襟を開いてくれたのもお前だ。
私はお前の中で遊ぶ子のようであって、お前の親でもある。
お前とワンセットで共に歩んでいる。
私はお前を愛している。
私はお前を連れて光にいざなう。
ともに光の中でひとつに溶け合うまで。

世界は愛だった

理想郷はすでにここにあった。
そして愛は・・・。
ここ数年、私は起きてくる出来事に、一連のシンクロを感じ、その意味を読み取ることで啓発をずっと受け続けてきた。
最近の啓発に満ちた衝撃的出来事は、藤澤ノリマサ君の音楽を知ったことだ。
特にダッタン人の踊りは曲も歌詞もすばらしかった。

[歌詞]
もしも今 すべてのものが
簡単に うしなわれても
けっして消えることなく残る それは愛
この世界が滅びて 最後のロンド 踊る日が来ても
あなたへの愛は幾千の 時をかさねて ここに刻まれる
消えることなく永遠に
未来など誰も知らない
真実は過ぎた日々だけ
ただ今は願い祈ること しあわせを
この愛は育ってく やがて広がる 大きな炎へ
苦しみや悲しみを超えて 燃え続けてく 暗闇の中を
光がさす場所まで
静寂と闇の中で 心とぎすませば
聴こえるよ 愛の歌が
愛は消えることのない炎
命をかけて 守りたい者は
君だけ

これは一種の異界交信と言っていいだろう。必要なものが必要なときにやってくるタイプのものだ。
彼の歌の歌詞によく出てくる「愛」という言葉。私はその意味がよく分からなかった。
汝の敵を愛せよと言った人の愛の意味は、許しだったろう。それは、とてもできそうにない許しを、無理に作った許しのことだ。それが愛というものなのか?と。こんな違和感を伴う愛など、愛とは呼べるわけがない。
愛は地球を救うとかいう人の愛とは、利他の心のことだろう。これも近づいた感はあるが、どうもしっくりしない。というのも、何か他人から強制されてやるような感があるからだろう。自分の思いや意志があってのことなら別だが、どうして慈善家である必要があるのか、という思いが違和感の原因なのだ。
ところが、ノリマサ君が歌っているときの「愛」は、力と心がこもっている。それはいったい何なのだ。それこそ愛と考えられるのに。
歌詞の中の「最後のロンド踊る日がきても」のフレーズにまず衝撃を受けた。
我々戦士は誰もが最後の日に、世界最後の踊りを踊ることになる、とはトルテックの時を駆ける戦士のドンの言葉だ。私はそのとき、どんなBGMで踊ろうかと、昔から曲の選択をしていた。高校時代は、ショパンの別れの曲だった。20年前には、久保田利伸のMAMA UDONGOの日本語版スタジオ収録曲だ。そして今、ノリマサのダッタン人の踊りにしたく思う。炎の美声を心の底から振動させて踊るつもりだ。戦士として最も誇らしい瞬間になることだろう。
「この愛は育ってく やがて広がる 大きな炎へ
苦しみや悲しみを超えて 燃え続けてく 暗闇の中を
光がさす場所まで」
私の前に照らし出される出来事の葉の一枚一枚に啓発と導きが必ずある。
そう。そうなのだ。無明の闇の中を燃え続けて照らすものが愛なのだ。世界は愛のために存在し、愛は世界のために存在していたのだ。世界は無明でなくてはならなかった。
愛は、生きているということだ。世界の中心に立ってこうして生きているということ、そのものなのだ。私はそれをビジュアルに体現している彼の姿の中に愛を見て共感して、私の心の奥底、魂が共振して、ものすごいエネルギーが溢れてくるのを感じている。
私が今ここに生きていることが愛なのだ。幾千の時をかさねて、大きく広がっていく炎なのだ。
私の愛に照らされて、世界が踊っている。たとえ世界が滅び、最後のロンドを踊って見せるのだとしても、私は広がり強くなっていく愛の主体として燃え続ける。
光さす場所まで。光さす場所に世界を導くまで。光の中に至れば、炎は要らなくなる。愛の炎は世界を救う救世主のことだった。
私のいるべき理想郷は最初からここにあった。
そして、世界の中心にある私は、愛そのものだった。
同じことが、みなさんにも言える。
愛の戦士たちよ。その名は、セーラー? ん?
では私だけでも。愛の戦国武者、直江? ん?
てなことはなく、そうだ、笑うセールスマン、喪黒服蔵。
ど~~~ん