ツイートのバックアップ 11/28~30

11月28日
シナリオは前もってあるからプログラムありきなのですね。そのシナリオが古事記神話にはインデックス的に神名で表わされています。こんなことが登場するぞと、今の時代のコンピューター、航空機、戦争兵器などの神々が出てきます。精神性の劣化による混迷の時代も暗示されてます。
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11月30日
もう少し説明を加えると、黄泉とは昔によく田舎の道端で見かけた💩溜りのことです。個別に言えば雪隠つまりお釣がたまにくるボットン便所のこと。しかし神話では死後のイザナミの様子からすると、土葬したときの腐乱状態であり、黄泉の国とは死後世界でも魂の行く冥界ではないことに注意が要ります。

つまり、死体を埋葬した地下のことなのです。西洋ではよく墓に入れた棺桶からドラキュラなどのゾンビが出てくるような表現がされるように、黄泉の国とはいわゆるゾンビが徘徊する世界のこととなるわけです。ローマ教皇の仰るゾンビとは、人との関わりが持てない心の貧困状態にある人ということですが、

むしろ関わりを持ったがために、自分で考えることを放棄したり、闇雲についていって犯罪に巻き込まれることのほうを危惧します。人は繋がりを持たなければ寂しいというのは、まともな時代においてなら推奨されますが、百鬼夜行の現代では自ら考えて自分の意志で行動するほうがよほどいいでしょう。

私にはローマ教皇が適当な宗教に入りなさいと言っておられるように思えて思わず笑ってしまいます。今は宗教にはとんでもないのが多く見られますよ。危ない危ない。
仮想現実論からすれば、人と繋がれないという現象は当然起きることです。繋がりを作るのはプログラム間で相互作用するときのみ。

相互作用しない相手はデーターであって、環境設定としてそこに予めあったにすぎません。もちろんこちらが能動的に動けば相手もプログラムとして動くことがあるわけですが、その能動も予めそのようにプログラムされていればこそなのです。むしろ自分は何をするかに注力したほうがいいと思います。

また、古事記の黄泉の国は、ゾンビすなわち死体が生者を求めて襲い掛かり、黄泉食を食わせてゾンビ仲間にしてしまう状況を描いています。死者イザナミは生者イザナギを死者の仲間に入れてしまおうとどこまでも追いすがるわけです。それこそ、ゾンビが追いすがってくるゾンビ映画さながらなのです。

イザナギは危うくゴールに到達し、黄泉の国から脱出が叶うのですが、死者の世界とは断絶し、イザナミと絶縁することになります。やはりゾンビ世界のことは古事記のほうがより本質的ですね。その世界がいま現在ということは、我々もどこにゾンビがいるか目を凝らして見ている必要があるということです。

その実際が予知できたからそこに置いたというのが預言とすれば、予言と言えます。
逆に実施目標・アジェンダということも預言という意味でありえます。
黄泉の国には悪魔的な未来像が描かれていました。アジェンダなら、ゾンビ化の未来を招来する悪魔の犯行予告とも言えそうです。

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