山に花愛でる旅人足を停め 故事来歴を辿り愉しむ

null

山に花 愛でる旅人 足を停め 故事来歴を 辿り愉しむ
やまにはな めでるたびびと あしをとめ こじらいれきを たどりたのしむ

いたってシンプルですが・・・森野奥人 作

早くもネット上では「令和」の出典が、さらに時代的に遡ることを論ずる論調が出てきています。

>新元号選定にあたり、以下の序文から引用したという。
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

とのことですが、

どうやら、後漢の張衡の帰田賦(きでんのふ)にこのような漢詩があるとのこと。

null

張衡という人物は西暦100年ごろの後漢の科学者で、中国では超有名人で、切手の図柄にもなっている人のようです。

科学的発明や発見は現代人もびっくりするほど。
地動儀という今でいう地震計を創り500Km先で起きた地震でも探知できたという。
渾天儀という天球儀を創り、当時で2500の星を記録していたとのこと。
水時計もまた。そして彼は後漢安帝のときに暦法機構の最高官職の太史令についた。(文部科学省の大臣のような地位か)
しかし、安帝とその子順帝のときの宦官政治の腐敗がひどくて嫌になり、辞して田舎に帰って農事をするようになったときの詩集が帰田賦とのこと。

後漢の時代とは、日本にも関係があり、後漢書東夷伝には
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、後漢の都の洛陽にまで使者をはるばる派遣し、朝貢していた。授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。
という歴史的にもエビデンスがあるとされる史実です。

新元号選定に際して、さらなる前例がないか調べなかったのは、うかつでしたね。どういう学者さんが選定に当たられたのか疑問符を打つしかありません。国書と明言する限りは、このようなニアミスがあってはならないでしょう。

古の歌人たちは故事来歴を探り、その博学ぶりを競ったものであります。それが歌会の場でした。
だから、万葉歌人といえども、歌集を編むぐらいの立場の人・大伴旅人ならば、故事典籍へのたしなみがあったものとして、一考しなければならなかったでしょう。

まあ成ったことはそれで良しとしてやっていく以外にありません。ただ、中国側から何らかの疑義が持ち出されるかもしれません。実際、すでにあったようですね。

日本の新元号「令和」、突き詰めるとやはり中国の古典がその由来?―中国メディア
https://www.recordchina.co.jp/b699732-s10-c10-d0046.html

しかし、そこは礼節のお国柄でしょうか。専門家は好意的に受け止めてくれています。
それを快く思い、今後、中国との友好を発展させようという方向付けをするならとてもいいわけです。
善隣友好。みんなで笑って和気藹々。ちょっとしたことはお互い笑って許しましょう、でよろしいのです。

そこは各国首脳との出会いで見せた、気さくな安倍カラーを出していけばいいんじゃないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です