古事記神話の真解釈

古事記神話の真解釈


古事記は要領よくまとめられた知識の書です。


元の伝承がどのようなものであったかは、ホツマツタエなどの歴史伝承などが参考にされ要約的に採録されたもののようですが、これ以外に、超古代文明から持ち越されたと思われるような科学知識が、言葉少なの古代において語り尽くされようとしていた感があります。

この解釈で前提となるのは超古代の存在です。その立場を容認願わねば、おそらくトンデモ解釈としか見ていただけないでしょう。



この解釈結果を得たのは、1980年代のことでした。それから10年余を経て更なる発見として、ヘブライの神秘思想カバラの伝播がありえた明確な形跡が見つかり、これはもしかするとカバラの知識体系が、当時開始された文字記録によってアウトプットされたものではなかったかという推理に至りました。

その論文はすでに「古代日本にカバラが来ていた」なる著書名で1995年に出版しており、ネット上においても「古代日本謎の中東思想渡来考(Web版)」として掲載し、すでに13年になっております。電子本はこちら ⇒ https://p.booklog.jp/book/99385/read



古代日本の為政者が知識の保全に力を尽くしていたことは、古事記の序文からも伺えることであり、その文字化されたアウトプットが古事記とするなら、カバラの知識のどれほどかが含まれていてもおかしくないと思われるわけです。

カバラは錬金術で有名です。古事記には、その元になるような科学知識が盛り込まれていることも事実です。

古代人のしたことと一笑に伏さない研究態度で臨めば、古事記は御伽噺の域を離れて、真に研究価値のある文献として識者の目には映ってくることと思います。


下表の段記号をクリックすれば、各段に飛びます  表の全体はこちら (jpg)
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古事記神話の物語構成一覧
段記号 段の見出し 解釈できる事柄 歴史時間
天地の初め 超宇宙論 宇宙開闢論 宇宙および
地球の創生
島々の生成(1) 地球の創生
島々の生成(2) 大陸の生成 各大陸の名称
神々の生成 ある人類文明史(生成から衰退まで) 前の時代の
歴史展開
黄泉の国 人類文明史(衰退から終焉まで)
身禊(みそぎ) 水による地上の浄化 人類の
空白期
神々の時代
誓約(うけひ) 浄化後の始末(自然の暴乱と鎮静)
天の岩戸 天変地異と回復処理
穀物の種 次の時代への種の保存 生存環境の
回復整備期
八俣の大蛇 異変の爪痕・火山活動の鎮静処理
須佐之男命の系譜 治山 治水 灌漑事業
因幡の白兎 土地改良と農業基盤整備
きさ貝姫とうむ貝姫 次代を引き継ぐ人類の試練、受難
根の堅州国 神から人類への地上管理権委譲 今の時代の
開始から
終了まで
大国主命の系譜 農耕、開墾関連の事物、風物描写
少那毘古那神 同時代の異星人との交流
御諸の山の神 同上
大年の神の系譜 豊かな農耕文化と知恵による統治
天若日子 文明開化 新文化の先鋒の帰化
国譲り 高度文明の侵略による国の譲渡
天孫降臨 賑々しい高度文明の移殖
猿女の君 高文明誘致者の滅亡
木の花のさくや姫 急燃焼、爆発的開花する天神系理念
海幸と山幸 海洋部族の人為的変災による衰退
豊玉姫命 怪獣徘徊の様相の高文明
うがやふきあへずの命 次の時代への元の木阿弥的旅立ち



天地のはじめ

角川文庫・古事記の段落分けに準拠する

 

古事記の伝える科学知識(宇宙論・前半)



「天地のはじめ」の前半は、現象の展開元たる神の次元の仕組みの話である。別天にあるため隠されていると書かれるように、観測できることのみを科学の対象にする現代科学では、扱われることはない。


古事記は、神の次元に「現世を司るプログラム」があると言っている。

それは、「命(みこと)」すなわち神の「御言葉」「言語」で表現され、神名が現象界を彩る主要なテーマのインデックスを示すようである。

それゆえ、神話上の神々の列挙は、神名の意味する事柄の順次展開(歴史)を物語るものであり、この歴史に関して「かつてあったこと」(古事)または「これから起こること」(降る事 預言)に分別されるのである。「ふることのふみ」とは、そういう意味である。

このプログラム全体の置き場をカミムスビ(隠身、隠れ結ぶ摂理)と言い、一方それは演算、励起されて初めて実体的現象と認識されるために、その演算のための機構をタカミムスビ(杲身、顕し結ぶ摂理)と言う。

手前みそだが、奇しくも同時並行的に、この世界の運行原理を探求していた筆者は、コンピューターをモデルにした超宇宙の仕組みのモデル概念を発表している。(1983年)  電子本 ⇒ https://p.booklog.jp/book/91316/read

この超宇宙概念は、神の次元(超次元)の、別天にある超コンピューターにより、世界の創造はなされているとするもので、そのCPUプロセッサーこそが、タカミムスビで表されており、この神のこちら側の世界にできた子供が「思い金の神」すなわちコンピューター・ハードウェアとされることで、拙モデル概念は古事記によっても支持されていると思っている次第である。

あと、水母なす漂えるとは、寒天状のホログラムのこと。
ホログラムメモリーは大容量のプログラムが格納でき、ウマシアシカビヒコヂとは、そこに投射するレーザー光が行き渡っていくさまを示すかのようである。


それらは、みな異次元のことゆえ、古事記では、観測にはかからない(隠り身)としている。

一方、中国道教においては、万象の根源「太極」とは「宇宙の本態であり、自らを開展して現象を生起させた」とする見えない根元的摂理として表現されるが、古事記はそれを機能別に捉え、太極である中心原理をアメノミナカヌシとしている。

天地のはじめ(前半)
 天地のはじめの時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神
次に
高御産巣日の神。次に神産巣日の神
この三柱の神は、みな
独神に成りまして、身を隠したまひき。

 次に國若く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へるときに、葦かびのごともえ上がるものによりて成りませる神の名は、ウマシアシカビヒコヂの神。次に天の常立の神。

 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

 上の件、五柱の神は別天つ神
【訳】: 先ず超宇宙の原理ありき。

 世界の開始に際しては、先ず超宇宙があり、そこに中心的な根源的統括機構現象を顕し結ばせる機構現象の理念を与える(隠し結ばれた)プログラム供給機構が存在した。この三つはそれぞれ独立した存在であるが、我々の観測にはかからない

 現象の展開時の様子はこう考えられている。

 漂う水母状の意味不明なものホログラム
に光が射すと萌え上がる黴のように現象生成が始まり、励起された場としての時空間が生じたのである、と。


 これらのことも、我々にとっては観測できない事柄である。以上、五つの事柄は、我々の物理宇宙とは別の超宇宙を扱う理論で出てくる話である。

2001年頃、当時はサイババブームで、知り合いの何人かがインドに会いに行っている。そのとき、あるひとりが帰国してからお土産をくれた。それが次の写真である。

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サイババが掲げているのは「黄金の宇宙卵」というもので、この卵の中に「この宇宙の始まりから終わりまでの歴史」がすべて入っているのだという。神の化身とされた彼によって、拙宇宙論が支持されたと確信したのが、この写真をもらった瞬間だった。


サイババは幼児虐待などで信用を無くして、預言された日より早くに亡くなったとされているが、それも拙宇宙論からすれば容易に理解できる。

ぜひ ⇒ https://p.booklog.jp/book/91316/read

その後、拙論の有望性を示す科学論調が、あちこちから示されるようになってきている。



古事記の伝える科学知識(宇宙論・後半)


天地のはじめ(後半)
 次に成りませる神の名は、國の常立の神。次豊雲野の神。この二柱の神も独神に成りまして、身を隠したまひき。

 次に成りませる神の名は、ウヒヂニの神。次に妹スヒヂニの神。

 次にツノグヒ(角杭)の神。次に妹イクグヒ(活杭の神。

 次にオホトノヂの神。次に妹オホトノベの神。

 次にオモダルの神。次に妹アヤカシコネの神。

 次にイザナギの神。次に妹イザナミの神。

 上の件、國の常立ちの神より下、イザナミの神より前を、あはせて神世七代とまをす。(独身の一々を一代、夫婦神の一組を一代とする) 
【訳】: 次に、物理空間の法則が完成した。場の時空の発生に伴い、物理的宇宙空間が生じた。

 それは、物質の母源たる星雲を豊富にたたえていたのだが、同時に基本的な物理性質も生まれた。

 浮き上がる泥土(浮ひ土泥)と沈む泥土(吸ひ土泥)で対照される浮力と重力[その理由である質量]、次に、堅牢な極(角杭)活発な極(活杭)で対照される陽子と電子[電荷]、次に、回転体(殿)の中心方向に向かう力(殿地)外辺方向への力(殿辺)で対照される求心力、遠心力[角運動量]がそれである。ここから導かれる、質量、電荷、角運動量は素粒子物理学上の基本三性質である。

 物性の諸原理が完備(面足る)すると、収束(凪)に向かわせる摂理拡散擾乱(波)を招く摂理によって、現象の綾が捏ね(綾・彼し・捏ね)られることとなった。

 以上、神の現象創造は、オリエントの七(段階)という完成数によっている。 

 
「天地のはじめ」の後半は、物理宇宙の話題となるのだが、ここには驚くべき記述がある。
泥土の水中での浮き沈みの現象をイメージさせて、浮力と重力の対照を暗示し、杭(極)における「角」の堅牢な場合と「活」の活発な場合を対照させて、重く安定した陽子と軽く活発な電子の対照が(今の時代なら)思い浮かぶ仕掛けとなっている。
また「トノ」は字義的に「丸味ある具体」を表し、「ヂ(地)」は内地、「ベ(辺)」は外辺を示すので、回転体などにおける求心力、遠心力の対照を語るものとなる。それは物質の基本的な性質を、陰陽を対比し、譬えを使って巧みに表現しているのである。一まとめに関連づけると、質量、電荷、角運動量(スピン)という素粒子物理学上の基本三性質になる。


古事記は定常宇宙論的であり、今はやりのビッグバンを語ってはいないようだ。
だが、その概念が、古代になかったわけではない。
中国の「三五暦記」には、巨人盤古が混沌の固まりの宇宙卵を開いて、成長とともに天地を分離し、世界を開闢していったという神話がある。
日本にも、蘇我氏の神道弾圧の際に滅ぼされた大中臣家の末裔、九鬼家に伝わる「九鬼文献」の中に、原初の神「モトツワタラセ」が気と力が凝り固まった卵のような状態から世界を開闢したという記述がある。神名が、原初における物質と空間の拡散を表現している。


島々の生成



古事記の伝える科学知識(地質学)


時系列的にズームアップされ、「島々の生成」の段では、現象の展開の説明も地球レベルとなる。
前半は太陽系内における地球の生成の過程について語り、後半は地球上の陸地が地下の火によってひび割れして創られる、いわゆる「大陸移動説」を論じた上で、世界地理に言及している。
世界地理については大陸名がその特徴とともに語られるようなのだが、既に山田久延彦氏が先見的解釈を施されているので取り上げないことにする。
 
 

国生み
 ここに天つ神諸の命もちて、イザナギの命イザナミの命
の二柱の神に詔りたまひて、この漂へる國を修理め固め成せと、天の沼矛をたまひて、言依さしたまひき。
 かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして書きたまひ、塩こをろこをろに書きなして、引き上げたまひし時に、その矛の末より滴るしほの積もりて成れる島は、オノゴロ島なり。
 その島に天降りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。ここに・・中略・・「故この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、國生み成さむと思ほすはいかに」とのりたまへば・・中略・・「然らば吾と汝と、この天の御柱を行き廻りあひて、ミトのマグアヒせむ」とのりたまひき。

・・中略・・「をみなご先立ち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処に興して子水蛭子を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去りつ。次に淡島を生みたまひき。この子も数に入らず。
・・中略・・ここに天つ神の命もちて、フトマニにうらへてのりたまひしく、「をみなの先立ち言ひしによりてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。(国生み・前半) 
【訳】: 現象の展開は、平衡と擾乱の要素の相互作用で成る。
 まず、物質が全てプラズマ状態(シホ=絞・炎)にあるとき、強力な磁場(ヌボコ)により回転(コヲロコヲロ)して集合し、重力によって凝集して自転(自=オノ、転=ゴロ)する天体を造った。銀河系や太陽系、そして地球がそうである。
 そうした天体は、自転軸(ミハシラ)の周りに非常に広大な回転対称域(ヤヒロドノ)を持っており、地球の場合には、当初自転軸を中心にして、広くて丸い大陸(パンゲア大陸)があった。
 また、どのような現象についても、陰陽の二極性が創造の要素にあり、陰陽が作用し合い新しい形態が様々に組織されていく。それは、男女も同じであり、男は剛毅、収斂の性質を持つゆえ「をとこ」(土の力)、女性側は柔軟、包容の性質を持つゆえ「をみな」(水の力)と表現する。
 また、相補する雌雄の二極の相互作用は共通軸に対する回転によってなされる。たとえば、共通の磁場を柱にして電離物質が回転することは、多くの天体創造(国生み)の原因となる。
 また、マクロな現象で、雌雄が同勢力としても、拡散性の雌側が運動を先行したなら、現象は発散して結果が実らない。大過去には、拡散勢力が国の統治に関わろうとして、内乱相次ぎ、結果的には大量の葦船による流罪者を出した。また、地球の回転が異状な時期に、陸地の海没が起こったりもした。組織作り国造りを通じて、まとめる側の力が拡散する側をしのがねば、まともな結果とはならないのである。
 さて、次に出てくる島々は、当初あった大陸が地下の火(マントル対流)によってひび割れして生まれている。それを擬態模倣して、扁平な鹿の肩甲骨を火で焼いてひび割れを起こし、吉凶を測るフトマニの占術が考案されている。
 また、海陸(水と土)が侵攻し合って島ができているわけで、それゆえミト(水と土)のマグアヒ(交合)とも言う。(前半解釈) 

国生み・後半は取り上げない。

 




神々の生成



 前段までで地上のすべての舞台設定が完了すれば、次はそこを舞台にして、歴史が展開されていく番である。この段で揚げられる神名によって、それがどのようなものであったかが分かる仕組みになっている。

ジャンル 神名 中間解釈 結果の解
イザナギ、イザナミの二神は、国生み後に次の神々をお産みになった
[建設] 大事忍男 大事推し 大土木事業の推進
石土毘古、石巣比賣 石土造建造物、住居
大戸日別 戸窓で日を制御 遮光、採光設備
天の吹男 天から吹き込む 換気設備、天窓
大屋毘古 大きな館 大規模な建物
風木津別忍男 風の持ち分けの推進 通風、送風設備
[海洋] 大綿津見 大渡の海 海洋の大航海
[港] 速秋津日子、比賣 物資の速飽きの津 貿易港、流通港
[河海] *沫凪、沫波 勢いよい水の制御 運河、水路の水量調整
*頬凪、頬波 滑らかな水の制御 ダム貯水池の水量調整
*天の/国の水分 水を分配するもの 上水道、下水道、水路
*天の/国のクヒザモチ 水を汲むもの 上水道の末端設備
[風] シナツヒコ 風にしなる 木の樹齢の譬えにより
時の経過の長さを示す
[木] ククノチ 木の股を潜る
[山] 大山津見 大きな山並み 山岳
[野] 茅野比賣(野椎) 茅茂る野原 一面の野原
[山野] *天の/国の狭土 細かい区画 国土の細分、領有
*天の/国の狭霧 区画の線引き 縄張り(の主張)
*天の/国の闇戸 倉の戸 世相の暗転
*大戸惑子、大戸惑女 大きな戸と窓 大混迷の世相(時代)
[火] 鳥の石楠船(天の鳥船) 空飛ぶ堅牢な船 航空機、戦闘機
大宜都比賣 大規模な生産 大工業生産
火の夜藝速男 燃焼が速いもの 石油の利用
(火のカガビコ) 炎が輝く有様 石油などの燃焼促進
(火の迦具土) 炎で輝く土 火薬
イザナミの神は、ミホトを焼かれて病気になり、寝込ん
でしまわれた
[吐物] 金山毘古、毘賣 金の山 金属工業の隆盛
[糞] ハニヤス毘古、毘賣 土で安んずる 非金属工業の隆盛
[尿] ミツハノメ 満つ・葉・飲め 多種大量製品と需要
和久産巣日 湧く・結び 需要供給を結ぶ経済
*豊宇気毘賣 豊富をさばく受皿 流通機構、市場
イザナミの神は、火の神を産んだことにより、遂にお亡
くなりになった
[]はその神にちなむ場所、*は直前の男女二神により生まれた神
()は直前の神のまたの名

失われた超文明の風俗と歴史の成行

それは一つの文明の風俗描写から始まった。大事業の推進とは、大土木工事のこと。石でできた家、館、神殿などが造られ、採光、送風など、建築物の主要な構成要素が挙げられている。
次に、「大綿津見」(大渡つ海)で大航海を暗示し、港を示す「速飽き津」で物資の速やかな充足を図る貿易港を暗示している。
さらに水との関連から、運河や水路の水量の調節の様子、水の分配や採水設備について語っている。
その次は、風、樹木、山野の神名で長い時の経過と雄大さを示し、のどかさを感じさせる情景描写である。
だが、その次から二通りの意味を帯びてくる。 縁語を使い、わざと両面から話を進めているのだ。
それまでの流れからいうと、土木関連用語を並べ、倉庫の扉や大きな窓からの採光について語っているようにみえる。ところが、もう一方では、区画線引による領土や縄張り争いから、利己的な心根が招く世情の暗転や大きな混迷について語っているのである。
すると、その次には石や楠のように堅牢であるが鳥のように速やかに飛ぶ船、飛行機が登場してくる。
これは歴史の必然なのか??!!

大宜都比賣は穀物生産の神であるが、ここでは工業生産に関係した表現となる。
大規模な生産が始まり、急燃焼するもの(石油など)の登場によって、生産神イザナミの病態、さらに死へと繋がっていくのであるが、その前に、イザナミのミホトによらぬ嘔吐物から金属工業が、糞から非金属土類の(セラミックなどの)工業が、尿から満ち溢れた種々の物を飲み取るだけの需要、湧き出る生産物をそれに結びつける経済体制、その下に豊かな受皿としての市場流通体制が生まれたという。
この部分はまさに、現在の我々の世界の有様を、先取りして語っているように思われてならない。
一応、イザナギ、イザナミの二神の協力で創られた神々という扱いになっているが、あまり良い展開ではなかったことを、汚物からの神生みで表現しているわけだ。
つまり、根底には利己主義、利益主義の影が濃厚に横たわっており、そうである限り、その先には着実な歩みで(必然的に!!)黄泉の国が到来すると、古事記は語っているのである。

しかし、これらのことは過去にあったことであり、決して今の世にそのような進展を保証するものではない。
では、この節で語られる過去とは、いったい何をモデルにしたのであろう。
それは、一万年前に栄えたという、かのアトランティス文明ではないかと考えられる。
プラトンの著作「ティマイオス」によれば、先古ギリシァ時代にアトランティスという国家がジブラルタル海峡の外に広大な島上にあり、多くの植民地を持って君臨し(ヨーロッパではイタリア中北部、アフリカではエジプト、アメリカ大陸に及んでいた)ていたが、なおもアジアに向けて大軍を以て侵攻したとき、アテネ軍を最強としたギリシァに敗れた後、恐ろしい地震と洪水が起こり、アトランティスは海中に没したという。
もう一つの書「クリティアス」によれば、アトランティス島には、全島にわたる美しく豊かな平原があり、その近くの丘に、支配者ポセイドンは都を構え、海水と土でなる大小様々の環帯を交互に造ったという。環帯には、海から港へ入る通路が開かれ、大きな船が出入りでき、また環帯から次の環帯へ三段櫂船で移動できたという。

 「神々の生成」の段の前半部分が、港や水利設備に関して特別な記載をしているのは、偶然のこととは思えない。これらはアトランティス島の特徴である。
その文明のレベルは、ちょうど中世からルネサンス期にかけてのヨーロッパほどであったかも知れない。
だが、文明は一度火がつくと急激に進展をみせる。産業革命から、はや二百年で宇宙に人が飛び、核兵器が世界に充満した。
よく考えてみると、その原動力は人間の飽くなき知識欲や探求心といった綺麗事でも、人間の生活をより豊かにしようという高尚な欲求によるのでもなかった。他を凌ぐための飽くなき利益追求のために競争を激化させたというのが本質ではなかったか。
そこに触媒的な作用をする石油などの燃焼原料や軍事兵器類の登場があり、事態を深刻化したのである。
古事記は利己主義的迷妄の世情の先に黄泉の世界、さらにその先に生命枯渇の天変地異の事件(いずれも後述)を置いて、強く現代を戒めているのである。



黄泉の国



 イザナギ、イザナミの男女二神により神生みが続けられていたわけだが、火の神の系統をイザナミはミホトから産んで後は、やけどを負い病態となり、ついに神去りたもうた。イザナギは、まだすべてを遣り遂げていない時のパートナーとの離別に嘆き悲しむ。そして、亡き相方を追って黄泉の国へ、というメソポタミア神話にも共通する神話の段がこれとなる。

黄泉の国(前半
 かれここに、イザナギの命ののりたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一木にかへつるかも」とのりたまひて、御枕辺にはらばひ御足辺にはらばひて泣きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山の畝尾の木のもとにます、名は泣澤女の神。
 かれその神避りたまひしイザナミの神は、出雲の國と伯伎の國との堺なる比婆の山に葬めまつりき。
 ここにイザナギの命、御佩の十拳の剣を抜きて、その子カグツチの神の頸を斬りたまひき。 
【訳】: 今まで積極的に生産に携われなかった精神文明の側では、達成すべき両文化の均衡のとれた発展が、急燃焼関連物の登場で一気に損なわれたために、非常な後悔が生まれた。
 とりわけ悲惨なのは、戦争と環境破壊の間で泣く被災者であった。
 魂の脱け殻となった物質と利益主導型文明は、現実世界と黄泉の世界の境界地(死線)に置かれた。
 このような破滅の原因は、剣のごとき英知に照らすと、燃焼関連の事物が登場したことによると理解できた。
 この時生まれた教訓は、かの破滅の顛末を次のように語り、歴史を引き継ぐ者達に、このような兆候が現れたなら、再び組するなかれと告げる。


一つ前の時代の終焉、超古代核戦争へと


利益主導と競争原理により偉大な繁栄を築いた世界も、その度が過ぎて侵略、争奪競争の激化となって現われ、多くの破壊兵器の使用までが行われていた。
イザナミは擾乱の摂理を物語るものであるから、この段からは計画や抑制が介在する過程を欠いた文明とみる。それは利己主義、利益主義によって主導された盲目的な成り行きであった。
一方、イザナギは平衡の摂理であるから、イザナミと正反対の悟性、良識を主導原理とした文明の在り方のことだ。
だが、現実の歴史の成り行きに対し積極的な関与が遅れていた。
いよいよ文明がイザナミ主導で末期状態となったとき、良識の光を当てて、何が衰亡に導いたかがはっきりしたのであるが、時すでに遅しだったというわけだ。

黄泉に導いた兵器類

神名 中間解釈 結果の解
カグツチ 輝く土 石油、爆薬
[カグツチ神の血から
生まれた神々]
石拆(イハサク) 岩が裂ける 爆裂、炸裂
根拆(ネサク) 根元から裂ける 爆裂の激しい様
石筒の男 堅牢な筒の力 大砲
ミカハヤビ 閃光と素早い火 爆裂と焼夷の様、兵器
ヒハヤビ 素早い火の回り 急燃焼兵器
タケミカヅチノヲ 強力な閃光を発する土の力 強力爆弾、核兵器
(タケフツ) 猛威あるプラズマ 核兵器の効果
(トヨフツ) 多大なプラズマ 核兵器の効果
クラオカミ 暗・竜神 暗く淀んだ天空
クラミツハ 暗・水神 黒く淀んだ水系
殺されたカグツチノ神の体から八種の山の神が生まれたが、何を表すかは不詳
しかし、前出の山野の神が良くないきっかけを作ったことと同じ線上にあるだろう
[刀の神霊]
天の/イツノヲハバリ 尾羽張り、とおせんぼ 凍結、(経済)封鎖

                                  

黄泉の国(中半)
 ここにその妹イザナミの命を相見まくおもほして、黄泉國に追ひいでましき。ここに殿の縢戸より出で向かへたまふ時に、イザナギの命語らひてのりたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる國、未だ作りをへずあれば、還りまさね」とのりたまひき。
 ここにイザナミの命のこたへたまはく、「悔しかも、速くきまさず。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝兄の命、入りきませること恐し。かれ還りなむを、しまらく黄泉神と論はむ。我をな視たまひそ」とかく申して、その殿内に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
 かれ左の御髻に刺させる湯津爪櫛の男柱一箇取りかきて、一つ火ともして入り見たまふときに、蛆たかれころろぎて、頭には大雷居り、胸には火の雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、あはせて八くさの雷神成り居りき。
【訳】: イザナミ文明は、もはや冥界に移行していた。
 その状態から救出すべくイザナギ文明の側から、もう一度やり直せないものかという提案が出された。イザナミ文明は、もう手遅れで後戻りできそうもないが、なんとか努力してみるから、余計な詮索をせずに待っていてくれと言う。
 しかし、いくら待っても努力している気配がないので、知恵の火に照らして中を覗いてみることにした。
 すると、物質文明世界は、いたるところで環境破壊や戦火の度合いを凄まじくしており、ありとあらゆる怒号が充満して、どろどろになるまで腐敗が進んでいた。
 地球文明の様子は、さながら雷の巣窟であったのだ。

超古代のことと考えれば・・・ いいや、現代にあてはまるのでは・・・
核兵器のような最終兵器類が、過去に使われるに至ったらしい。
インドの叙事詩マハーバーラタにはかつて王族の戦争があり、この時に神インドラの兵器が使われたと語っている。
「火の玉のように輝く砲弾が発射されると、濃い霧が軍隊を包み、不吉をもたらす竜巻が起こり、黒雲がうなり、音をたてて空高く昇っていった」とか「その光には、太陽でさえ目を回した」とか「兵器の熱で世界は熱くなった」と書かれる。
それはまさしく核戦争の情景である。
また、その兵器は「巨大な鉄の矢に似る」と書かれるが、それはまさにミサイルである。またこれは別の部分で、爆発すると天心に一万個の太陽があるほどに明るい稲妻とも表現されている。
その譬えが元となり、建御雷男神として表現された故ではないだろうか。
現代人の我々でもまさかと思うようなこの描写は、間違いなく過去のものだ。そうしておきたい
過去にあったこと? 
いいや、そんなわけにはいかなくなった。
地球温暖化が急加速している。それも火の神系の示す燃焼原理の現代への適用の結果なのである。
それがもたらす天候の異変は、水不足や食料危機を招くとされている。
最近になって、ジュセリーノ予言がにわかに脚光を浴びだした。
それによると、生命存続に関わるこうした事情から、資源の争奪を目的とした大規模戦争が行われるというのだ。(第三次大戦だ)
そのとき用いられるのは、攻撃にせよ防衛にせよ、貯めに貯めた核兵器であることは間違いない。
こうしていっそう自然界は破壊され、地球は生命系惑星としての死線をさまようようになる。
まさに現時点は黄泉の国であり、イザナミが帰り支度するので待っていてくれと申し入れている時点なのである。
しかし、この神話によれば、いっこうにその気配がないどころか、よけいに腐敗が進んでいる有様だったことから、イザナギは怖くなって逃げ出すというわけである。
この神話のとおりに進むなら(その可能性が大きいが)、さらに黄泉の国の後半がシナリオとして残されているので参考になろう。

黄泉の国(後半)
 ここにイザナギの命、見畏みて逃げ還りたまふ時に、その妹イザナミの命、「吾に辱見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女を遣して追はしめき。
 ここにイザナギの命、黒御蔓を投げ棄てたまひしかば、すなはちエビカヅラなりき。
 こをひりひ食む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻に刺させる湯津爪櫛を引きかきて投げ棄てたまへば、すなはちタカムナなりき。
 こを抜き食む間に逃げ行でましき。
 また後にはかの八くさの雷神に、五百の黄泉軍を副へて追はしめき。
 ここに御佩の十拳の剣を抜きて、後手に振きつつ逃げきませるを、なほ追ひて黄泉比良坂の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子三つをとりて待ち撃ちたまひしかば、ことごとに逃げ返りき。
 ここにイザナギの命、桃の子にのりたまはく、「汝、吾を助けしがごと、葦原の中つ國にあらゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ちて、患惚まむ時に助けてよ」とのりたまひて、オホカムヅミの命といふ名をたまひき。
 最後にその妹イザナミの命、身みづから追ひきましき。
 ここに千引の石をその黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置きて、おのもおのも対き立たして、事戸を渡す時に、イザナミの命ののりたまはく、「愛しき我が汝兄の命、かくしたまはば、汝の國の人草、一日に千頭絞り殺さむ」とのりたまひき。
 ここにイザナギの命、のりたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝然したまはば、吾は一日に千五百の産屋をたてむ」とのりたまひき。
 ここをもちて一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人なも生まるる。
 かれそのイザナミの命になづけて黄泉津大神といふ。またその追ひ及きしをもちて、道敷の大神ともいへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反の大神ともいひ、塞へます黄泉戸の大神ともいふ。
 かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲の國の伊賦夜坂といふ。
【訳】: イザナギはイザナミの方法では建直しは無理と、自分だけでも汚土からの脱出をはかろうとする。
 正体を見破られたイザナミ勢力は、すべてを道連れにすべく、最終戦争を起こした。
 どちらの理念も構成分子たる人類が担う。イザナギ勢力は、黄泉軍の殺戮の手から逃れるべく、核シェルター(軍事施設の象徴)やビル(都市の象徴)をおとりにして、時間かせぎをした。
 それでも幾多の兵器を持って強力な殺戮軍が繰り出してくる。
 そうした殺戮の最中に、時代の境界点(ヒラサカ)である終結の時点を迎えるのだが、その境界の時点(サカモト)に居た桃形の飛行体(UFO、仏教にいう聖衆来迎)が、空に満ちる(モモノミミツ)ほどに飛来して、殺戮軍を撃退したのだ。
 こうして、次の時代を担う人間が、辛うじて橋渡されたのである。
 ここで、地球の将来に渡って、桃の実に一つの委託がなされた。
「理念の顕しに貢献する人類が、今後このような苦境を迎えて難儀するようなときに助けてやってくれ」と。
 この桃の実には「天照大神の現し身」という名が付けられた。
 時代の最後まで、物質文明は地上を蹂躙したが、ある一点を境にそれは完全に消滅し、分子を減らした精神文明が後を継いで、人間は増加の一途を辿ることになったのだ。
 さて、我々の科学観では、存在の状態(相)が隔たる二つの世界の間には、感覚では掴めぬ境界石が置かれ、交通を拒み、互いの秩序を保たせていると考えている。
 たとえば現世と黄泉を往来することは禁忌のことであり、神が許された方法を以てしてもなお難しいものである(イシュタル神話)。
 時間軸上のその開始点に、隔壁の巨大な大岩が仮想されて、「歴史を元に戻す大神(道返し)」とか、「黄泉世界の扉を閉ざす大神」と呼ばれ、過去のイザナミ文明のことは、「世の面を尽きさせた(ヨモツ)大神」とか、「歴史を最後まで蹂躙した(道敷き)大神」と呼ばれた。
 また、時代の接点を、今に「出生(新生)の前夜坂」という。

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  最終局面を飾る代表的な事物


  エビカヅラ    壊・火・鬘      
    火避けドーム、核シェルター
  タカムナ     高・棟(タケノコ状)     高層ビル
  ヨモツヒラサカ  世の面尽きる時間上の究極地点 時間的な終焉を象徴する地
  オホカムヅミ   大神の実(桃状のもの)    聖衆、UFO
  道敷き、道返し  道=歴史、時間 敷き=仕切る 歴史を仕切り、元に戻す
  塞へます黄泉戸  黄泉の戸を閉ざす       過去の歴史を閉ざす


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超古代最終戦争の様相


この段に書かれる事柄の中に、聖書に出てくる将来への警告と同様のものが含まれていることに気付く。
まず大都市(バビロン)が危ないということ。地の王の軍が天の軍に滅ぼされ、特定の者が救い上げられるということ。ある時点を境に前の時空は過ぎ去り、新しい時空が用意されるということである。
だが、これらのことは、かつて起こったことと古事記は主張する。今後に約束されたものではない。
 ここで桃の実を形の似るUFOと解釈させてもらった。古代人がUFOを見たときの鮮烈な印象が、世界神話になり、天の軍(ユダヤ)や聖衆(仏教)として後世に残されたものとみる。
この時のイザナギの桃の実に対する要請が、再び人類がかかる危機に直面したときのために用意されているというのが、古事記のこぼれ話だ。(⇒ネイティブアメリカン・ホピ族にも同様の見解のあることが後に分かった)
古事記は現文明が植物、特に穀類の一生と変わるものではないことを語っている。
また、古事記の「古」とは「降る」とも「振る」とも読み替えられる掛詞としての意義を孕んでいる。
つまり、時代はその中に人類の文明を揺籃して、幾度も繰り返すものなのかも知れない。いわば、人類史の転生輪廻である。
そして生物すべての一生(個体の歴史)が生・成・衰・滅を規定するDNAにコントロールされると同様、人類文明の歴史もどこからか一定の傾向を持たされているというのが自然界の相似像というものかも知れない。
とすれば、現代にもその作用は及び、その方向に世の成行がまるで同じ足跡を辿る如く進んでしまいがちになることは否めないであろう。

 




身禊(みそぎ)




汚土脱出のミソギの旅 


 イザナギとは、精神を凪の状態にする安心の節理を示す神である。いっぽうイザナミは精神的に擾乱の状態にする不安定性の節理を示す神である。歴史の展開には、そのいずれもが必要であり、その絶妙のコンビネーションによってこそ、理想世界の実現は可能となる。
だが、車の両輪のごとき二神の働きが失われ、さらにイザナギのユツツマグシ(観測の意識の目)すらも黄泉の国を照覧するようになった。このことは、意識の主眼がこのシナリオの上にあることを示す。
だが、意識は黄泉の国の惨状を見て、このままでは危ないと脱出を決意する。そう決意すれば、ルートは開かれ、ふつう冥界からは帰れないとされる節理も曲げられ、扉を開く。
だが、いったん汚土に居た限りは、その影響と余韻をすべて拭い去らねばならない。
こうして意識は、自らミソギの行程を踏むのである。

大変災・汚土脱出と大洪水


イザナギ神は黄泉国から脱出して、心身を清める身禊を行なうが、まず汚れ
ている身に着けていた道具、衣類、装飾品の類を投げ捨てる。
冥界に出入りする際に身の回りの物を脱着するのは、メソポタミアの神話にもみられ、その内容もほぼ等しい。
だが、日本神話には持ち物のイメージが類似する意味深長な何物かが象徴的に神名で挙げられている。
それは物心両面における遠隔地への逃避を表わす言葉ともなっている。
前段を引き継げば、地球外知性の助力によるイザナギ人類の汚土地球からの遠離という段階があり、生き残った人類と生物の種子は、いったん生存可能な別の場所(宇宙)に移されたようである。
ノアの方舟は、古代人にとって手の届く範囲で分かり易く解説された象徴話の感がある。
「身禊」の前半の神々
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 投捨品   生じた神           示す意味     その他暗示されるもの 
                                         
   杖   衝き立つ船戸       遠離の船出    環状列石の中央柱? 
  帯   道の長乳歯        長い道程     歯状列石?(カルナク)
  袋   時量師          長い時間の経過  クロムレク?、天体時計
  衣   煩ひのうし        煩悩、病の消失  ドルメン、瞑想、治病所
  袴   道俣           道中の安全    石神、道祖石     
  冠   飽咋のうし        貪欲飽食の消失  ドルメン       
  手纏   奥辺疎、渚日子、貝箆   遥か遠くに遠離  磐座の直線上配置 
                             
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「身禊」の中半

原文
ここにのりたまはく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀕に降り潜きて、滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、八十禍津日の神。次に大禍津日の神。
この二神は、かのきたなき繁き国に到りたまひし時の、けがれによりて成りませる神なり。
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神。次にイヅノメ。
次に水底に瀬ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神。次に底簡の男の命。
中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。
水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の禅。次に上簡の男の命。
この三柱の綿津見の碑は、阿曇の連等が祖神と斎く神なり。・・・中略・・・筒の男の命三柱の神は墨の江の三前の大神なり。
意識の目は図らずもしたこととはいえ、黄泉の惨状と黄泉の神のおどろおどろしさを見てきた。神界にすら黄泉の手が伸びているかのように思われた。
このため、意識の目はイザナギの目と行動を借りて、理念界、神界の浄化を果さねばならない。
その場所は、神界と現界のいずれによっても困難なので、その間にある中間界で行われることとなる。
まず、黄泉の神々から凶悪の原因に至るまでの理念が、いったん呼び覚まされ、浄化の川の流れにすべて流し去られた。その理念は川の中でも正され消滅させられねばならず、このときにカンナオビ、オホナオビ、イヅノメ、ツツノオが活躍して、理念界、神界の毒を消し去った。いずれ現界にも好影響として出てくることになる。
すべて、理念界、神界、現界を住み易くするための節理である。

理念界と地上界の浄化がなされる

 今一方、地上では、ヤツマガツヒ、オホマガツヒで示される放射能による超汚染がカムナホビから「上簡の男」までで示される浄化機構で清浄化された。その具体的な形や仕組みははっきりしないが、筒の男は海洋浄化のための円筒状の機構であることは言える。
ノストラダムス大予言の二章四八編には毒物浄化機構を思わせる極地にある輪のことが述べられているが、この簡状の機構の活在を意味してはいないだろうか。
接点の時代にはこのような救済用設備が前面に出て活躍し、文明期には人類に気取られることのないような所で潜かに運用されていると考えられる。 
なお、イザナギが身体を源ぐために降りようとした川の上、中、下流というのはアカシックレコードの投射の階層をあらわしていると考えられる。というのは、古代人が因果的な過去(時間にしろ空間にしろ)を示そうとする際に用いるのが、身近な不可逆的な可視の(空間的な)擬態表現なのである。「道」は不可逆性を石で作っていたが、川は自明である。加えて、ごく自然にブレークダウンしてくるものであり、否応ない法則としての理念の投射を表現するのに相応しかったのではないだろうか。
だから、ここで浄化がなされたというのは、多く理念界での出来事とみてよい。上流はそのままにされ、中間段階に手が加えられた。これは大本にあるアカシックレコードの原型は病んでいなかったからであろう。これゆえ、この文明の歴史は、まがい物のレコードを索引してしまった失策であったと結論できるのである。

このイザナギ神自身が身体を清めるべく、川の中ほどに降りて潜り、諸々の穢れを洗い流すという話。これは現在でも核兵器の放射能毒を洗浄する最も有効な方法と考えられている。
それを地球大にスケールアップした大洪水があり、地上が水により洗浄されたことを意味すると解される。(これは水を多量に含んだ天体との衝突が原因であった。後段)
この時に災禍を示す神々と、それを直そうとする神々、そして海洋と水系の浄化の神々が生まれたとする。
ゾロアスター教にも、悪神の地上に出した害毒を浄化するためにアフラ・マツダの命でティシュタル星(シリウス)が洪水を起こしたという神話がある。

だが、それらは地球上という角度から見た解釈だ。実は、現界の悪しき現出は、理念界(プログラム)に端を発している。それが悪しきものであるなら、意識の目から見て、その向こうにある神界も曇って見えるものである。
このために、意識の目は、ミソギの行程を、自らの得心のために踏まねばならない。その中には、邪神の断罪から、元凶たる原因の断罪破棄まであって、すべて漏れることのない周到さで行われる必要があるというわけだ。

 

 

身禊(後半)

原文 訳/解釈
 ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は建速須佐の男の命。・・・中略・・・天照らす大御神に賜ひてのりたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、ミクラタナの神といふ。  
次に月読の命にのりたまはく、「汝が命は夜の食国を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命にのりたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。
 かれおのもおのもよさし賜へる命のまにま知らしめす中に、速須佐の男の命、依さしたまへる国を知らさずて、ヤツカヒゲ胸前に至るまで、泣きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣き枯らし河海はことごとに泣き乾しき。ここを以ちて荒ぶる神の音なひ、狭純なす皆満ち、萬の物の災ひことごとに起りき。
 かれイザナギの大御神、速力佐の男の命にのりたまはく、「何とかも汝は言依させる国を知らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ臼さく、「僕は母の国根の堅州国に罷らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここにイザナギの大御神、いたく忿らしてのりたまはく、「然らば汝はこの国にはなとどまりそ」とのりたまひて、すなわち神逐ひに逐ひたまひき。かれそのイザナギの大神は、淡路の多賀にまします。
イザナギが目鼻を洗浄したとき、天照大御神、月読の命、建速須佐の男の命が生まれた。
イザナギはそれぞれに高天原、夜の支配する国、海原を統治するように命じる。

だが、スサノヲだけは責任を果たそうとせず、母の居る地下界に行きたいと泣いたので、緑なす山々は塩害で枯山となり、あらゆる災いが発生した。
ここでは三貴神の支配の構図を示すことにより、新しい天地支配の開始、仕切り直しが語られているとともに、スサノヲが海原というのは、すべてが水の中に没した前提に立っているようである。
それは直ちに収拾されるべきであったが、スサノヲの責任放棄話に掛けて、浄化の行き過ぎによる生態系の壊滅を物語っているように思われる。
ホピの神話の人類の守護神マサウウは、スサノヲと同一神であると考えられる。
マサウウも、前の時代において失策したゆえに、この時代において守護神を命じられたとされていて、より一層、同一神であるらしいことが分かる。

新天地の登場と荒廃した地上世界

 この節では、新しい時代の天地支配の構図を示している。アマテラスの支配する高天の原は既に述べたように超空間であり、地上世界の何事も鳥観できる五次
元的時空である。だが逆に地上の我々からは察知し得ないので、遠隔の太陽に擬態すると共に、ミクラタナ(棚の上の安定した世界)と古代人の間では認識していたようだ。また、「月読」は「尽く黄泉」と解せ、地上を中心にしたとき、高天原の正反対の位置に在るべき冥界をあらわすと共に、現在みる月が文明の終局に何らかの関わりがあったことを示している。後程述べる「天の斑駒」(水天体)と関係が深いと思われる。

 スサノヲは海原の守護を命ぜられるが、これは表裏の関係にある大地の守護をおこなうことでもある。(これはギリシャ神話のゼウス、ヘーデース、ポセイドンの支配構図と一致している)だが、彼はそれを履行しないばかりか、かえって海陸を逆転するようなことをした。「その泣く様は・・・泣き乾しき」にあらわれている。これは海外にあるものと共通した洪水神話である。また、スサノヲが洪水を起した理由が、母イザナミの居る黄泉の国に往くことであるから前節のイザナギの水による地上の病んだ状態の浄化と同じことを示しているのではないかと考えられる。つまり同一事件を異なった観点で述べているのである。海外の洪水神話がいづれも洪水の原因を不敬な人類への神の怒りとその浄化に帰していることをみても頷けよう。
 古事記上つ巻の訳の上から、ここで大きく歴史的に二つに分けられる。これより以前は一時代の壊滅と次代の準備のための浄化までが書かれ、以降は次の時代の初期状態の説明で始まるのである。また、原文上でも、イザナギ、イザナミから天照らす大御神の天神、スサノヲという国神の持ち分け支配へとバトンタッチされていくのである。


誓約(うけひ)




神の科学力と自然力の対照
 


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  アマテラス(高天原)の科学力
            
  チノリノユキ        千程の矢の格納具    長距離ミサイル?
  イホノリノユキ       五百程の矢の格納具   中距離ミサイル?
  イツノタカトモ       矢射りの関連具     ミサイル発射台?
  イツノヲタケビ       威力ある雄叫び     超音波兵器 
  アマツヒコネ        天の知恵を捏ねる    宇宙科学による創造
  イクツヒコネ        活く・日・捏ね     生命科学の活用  
  クマノクスビ        隈・霊す・日      他系に及ぶ霊妙な科学

  スサノヲ(地上)の眷属は自然現象の猛威を表わす
  「山川動み、国土皆震りき」 とは 広域大地震、地殻変動 のこと

  タギリビメ         田切り、滾り      細断、溶岩流の激動 
  サヨリビメ         狭縒り         圧縮、ねじれ
  タギツヒメ         滾つ          沸騰、焦熱
                              

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科学力は自然の暴乱に勝る


「誓約」の段は、挿入的なものと解する。
好位置においてアマテラスの武具の象徴する神々しい高科学力と、スサノヲの武具の象徴する大自然の力を対比し、出所が異なることを示した上で、どちらが善で勝れているかを対照しようとしたようである。ここでは科学力が善として描かれる。




天の岩戸




 

天の岩戸(前半)
 ここに速須佐の男の命、天照らす大御神に白したまひしく、「我が心清明ければ我が生める子手弱女を得つ。
 これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」といひて、勝ちさびに天照らす大御神の営田の畦離ち、その溝埋み、またその大嘗聞こし召す殿に屎まり散らしき。
 かれ然すれども天照らす大御神は咎めずてのりたまはく、「屎なすは酔ひて吐き散らすとこそ我が汝兄の命かくしつれ。また田の畦離ち溝埋むは、地を惜しとこそ我が汝兄の命かくしつれ」とのり直したまへども、なほその悪ぶる態止まずてうたてあり。
 天照らす大御神の忌服屋にましまして神御衣織らしめたまふ時に、その服屋の頂を穿ちて、天の斑駒を逆剥ぎに剥ぎて墮し入るる時に、天の衣織女見驚きて梭に陰上を衝きて死にき。
 かれここに天照らす大御神見畏みて、天の石屋戸を開きてさし隠りましき。
 ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ國ことごとに闇し。
 これに因りて、常夜往く。ここに萬の神の聲は、さ蝿なす満ち、萬の妖ことごとに発りき。
【訳】: もう一度、時代を分けた変災の内容を検討しよう。
 それまでに人為的な山野の乱開発や戦火その他による破壊によって、初めの頃に目的があって整備され耕された土地が、多く駄目になっていた。
 そのような所業も、おそらく一時的な戯れか、あるいはもっと良いことをするためであろうと放っておいたのだった。
 だが、そうしているうちに、ついに歴然とした事件が起きた。馬の皮を逆剥ぎにしたような格好をしてやってきた水と土を多量に含んだ天体が、環境破壊によって抵抗力をなくしていた地球に衝突したのだ。
 このために地上は泥で大地を洗ったような格好になったばかりか、地殻変動の影響は地球の深部にまで及び、清浄な地球の衣ともいうべきオーロラを織り成していた地磁場が消失してしまった。
 すると宇宙から射込む宇宙線は大気に水滴をつくり、濃厚な雨雲を形成した。このため太陽は隠れ、地上には雨が降り続き、世界は寒冷と暗黒のなかに置かれ、地上の生命は生命体地球の死と共に絶滅に瀕したのである。


天体の衝突が招いた太陽消失

「天の岩戸」の段では、かの一時代を終わらせた大変災の経緯の詳細と、死んだ地球を元の状態に回復するために執られた超科学的方法が語られる。
奇想天外な内容であるが、古代の黄泉帰り思想の底流を成す重要な記憶である。
ここで中核になる話は、「天の斑馬」に象徴される天体の落下と、それが引き起こした大異変である。

斑馬とは、死と再生、吉と凶の相反する状態を具有する禁忌の神馬と古代人の間では認識されていた。加えてこ
れには、水と土の混ざり合ったものの意味合いが込められている。

その逆剥ぎとはまさに、尾を引き近づく天体(彗星)を形容したものなのである。今から一万四千年ほど前、海水面が百メートル以上も一気に上昇したというデーターがある。
そして現在は、かつてより百四十メートルも上がっているというのだ。
通説では、氷河期が終わりを告げたためとされているが、それほどの水位の上昇を引き起こすだろうか。

それよりも、天体の運んだ大量の水が水位を極度に押し上げ、衝突とあいまったアトランティス島の海没がメキシコ湾流の流路を開き、ヨーロッパの氷河期を終わらせたのではなかったか。

 

大異変は、天体の引力や衝突により巻き上げられた物質による大洪水や噴火といった直接的な作用があるに加え、いま一つ、落下した天体の規模によっては、地核やマントル層に及ぶ歪みの影響により、地磁場消失ということも有り得たかも知れない。
古事記によれば、「忌服屋」と「神御衣」からオーロラが連想され、地磁場が導かれる。
これが「服屋の頂」すなわち電離層の外から落ちてきた「斑駒」天体のために駄目になることを、織り手の生産機能の死という寓意で表現しているとみられる。それが太陽の長期的お隠れに繋がった。
太平洋諸島の住民の間では、「最も暗い時代」とか「毎日が夜の時代」と称される時代があったとされ、「ポポル・ヴフ」の伝えでも、大異変の後で寒さが始まり、太陽が失われたと伝える。

古事記では「身禊」からこの段までで、一大異変を多角的に説明している。
まず「身禊」では人類の再出発のためにひどい汚染状態を浄化しておかねばならないとして水を正当化し、次に幼いスサノヲの行状に譬えて、地上の守護精神の能力不足、抵抗力不足で異変が訪れたとし、最後にその事件が天体の衝突によったことと、その影響が長期間太陽を隠すほどの規模になったことを語っているのである。

 

 

天の岩戸(中半)
 ここをもちて八百萬の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日の神の子思金の神に思はしめて、常夜の長鳴き鳥を集へて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、イシコリドメの命に科せて、鏡を作らしめ、玉の祖の命に科せて八尺の勾玉の五百津の御統の玉を作らしめて、天の児屋の命フトダマの命を召びて、天の香山のマヲシカの肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のハハカを取りて、占へまかなはしめて、天の香山の五百津の真賢木を根掘じにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百津の御統の玉を取りつけ、中つ枝に八尺の鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取りしでて、この種々の物は、フトダマの命フトミテグラと取り持ちて、天の児屋の命フトノリト言ほぎ白して、天の手力男の神、戸のわきに隠り立ちて、天のウズメの命、天の香山の天の日影をたすきにかけて、天のマサキを蔓として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸にうけ伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳をかき出で、裳の緒を陰に押し垂りき。
 ここに高天の原動みて八百萬の神共に笑ひき。
【訳】: 神々は宇宙船(UFO)の航法と同じ原理を駆使して時空プログラムを組み替える技術を使い、地球の存在する時空を転移する方法を採った。
 では、UFOの製造法、超時空航行に至る経過とは如何なるものであったか。

 神々は、宇宙空間に集まって、コンピューター(思金)の監視のもとに、超音波のつくる特殊な状態のなかで、元素周期律表の端(安の河の河上)にある堅い鉱石(堅石)と、多量に産する金属(金山の鉄)を合金にし鍛造(イシコリドメ)して、輝く結晶体(鏡)をつくり、いっぽう宇宙機母船の設計図(玉の祖)をもとに、多分岐した勾玉状のものを統一して威力の出るエンジン(五百津の御統の玉)をつくり、ボディーと電気系統の組みつけに関しては、多量の輝く材料を丸くプレスしたもの(マヲシカの型の内抜き)に、やはり輝く材料でできたケーブル(ハハカ)などで裏側(占へ)を電装整備し(賄ひ)、威力の源泉となる中心柱(マサカキ)の上部(初枝)に先程のエンジンを、中程に結晶体を、下部(下枝)に白や青のにぎやかなものを取り付けた。
 この装置は、コントロールルーム(太・満・倉)にある操縦制御系統と連動していて、運航の合い言葉(太祝詞)となる手続きを踏ませると、強力な力場(手力男)が時空の壁(岩戸)に発生し、回転系(渦・目)の動きは力場(日影)を兆型(襷)にして、時空の分断域(目・裂・鬘)を周りに形成して、笹の葉を結んで輪にしたような輝きを発生させ、虚ろな箱(うけふせ)のような時空転移のトンネルの上で共振する(踏みとどろこし)ようになると、やがて船体は元の時空の縛り(面の紐)を超えて新時空にジャンプして行くのである。

 この宇宙船と同じ仕組みが地球に適用された結果、時空の相転移に伴う多数の法則(八百万神)の洗い替えが終わり、宇宙船地球号は新たな時空プログラムの軌道に乗せられたのである。



死からの再生・世の建直し(地球蘇生)と時代の開始


  

地球を死から蘇らせる超科学技術

 古事記「天の岩戸開き」の節は、生命体地球を、災疫に満ちた存在の状態から脱出させ、生命力を再生する超科学的手段とその実際を示している。それは、宇宙人の乗物UFOの飛行原理と同じ原理を用いた機構によって執り行われたとみられる。
インドの古文献マハーパーラタにはイオン推進であるらしい宇宙機の説明がなされているが、古事記のそれは、ある種の力場の回転により現時空を超越してしまうというものだ。
その用法は、決して遠距離の短時間航行にあるのでなく、現状の存在状態からの離脱と、理念の改善のためであった。
言い換えるなら、存在状態の変革機構なのである。プログラム時空論的には、時空ジャンプとすべきものだ。
しかもこの機構の説明に要した長い叙述が一文にまとめられていることに、他文にない特異性があり、明らかに特別重要な知識群であることを物語っている。
 この節に登場する主役は、もはや地球人類ではなく、地球外知性となる。だが、この情報をもたらした者とは、地球人類の祖先である以上、接点の再生の時期のタイミングに偶然もしくは選ばれて行きあわせた者であり、それも、本来なら秘密裏であるべき復元作業の現場に立会っていた者であろう。
さらに、驚異的な科学力の半神半人的宇宙人の横で逐一教唆を受けていたとさえ考えられるような製造行程の描写である。

UFOの構造、稼動原理

 さて、この節の解釈はど原文対訳が忠実にできた個所はない。神名の意味は対訳と照合すれば意味が把めるはずである。だが、重要な留意事項を次に掲げておこう。
 オモヒガネ(思金)は考える金物のことで、宇宙文明の底流をなす利器、コンピューター(ハードウェアーのことである。この神がタカミムスビの神の子であることは、コンピューターの設計思想が宇宙運行の原理を模倣したものであることを示している。これは拙宇宙モデルが古代的観点から妥当であることの証拠である。
 アメノヤスノカハの「ヤス」はたくさんの物質のことで、全体で物質資源のことであり、この河上とは元素周期律表の(最も重い元素の側の)上位であることや、物質生成の場の付近の意味にもとれる。「カタシハ」は、堅い石片のことであり、アメノカナヤマの意味するどこにでも見かける山ほどにある金属の中の特に「マガネ」とともに鍛人アマツマラ(交転)の意味する融合炉にかけ、イシコリドメ(石凝り留め)の鋳型に入れて、カガミ(輝身)の示す輝く結晶体を造るというのである。
「香山」(カグヤマ 輝く山)は、輝くたくさんの材料、「マヲシカの肩」は、丸く力ある船体(鹿は古来より神の乗物であるとされる)の型、アメノハハカは細長いケーブル(ハハは蛇の意「「ウラナヒマカナヒ」は「占ひ」ではなく「裏綯ひ賄ひ」で、内装整備するの意となる。
「玉の祖の命におはせて……アオニギテを取り垂でて」の部分は、まさに空飛ぶ円盤の内部構造からエンジン始動の様子までを示すかのようである。

ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマは、たくさんに分極した曲玉が円筒ないし球内に収まった多極巴えの外観をしたもので、これがパワーを発生させる中心動力(エンジン)になっているという意味である。

 ここまでで装置の部材からハードウェアまでを具体的にしているわけであるが、その次は運行に併うソフトウェア的な説明となる。「フトダマ」、「フトノリト」、「フトミテグラ」の「フト」とは、電子機械や電気そのものと解せ、それぞれ、機械船、メカ的司令手順、メカの充満した部屋(電子制御室)を示すと考えられる。
既に出てきた「フトマニ」は予測(占ひ)のためのメカ的表示画面であり、すでに別のところで出てきた「タケフツ」とは、武力メカすなわち戦車や球電兵器を示すという具合に解釈される。

 また、「アメノタヂカラヲの神…天の岩戸にうけふせて」の部分は、まさに空飛ぷ円盤の稼動状態を示すのであるが、何やら、アダムスキーが金星人から示されたという「アダムスキー文字」の説明をするかのように思えた。(図2・5参照)


まず、エンジンが操作手順に従って、ある程度稼動した頃、「アメノヒカゲ(日陰)をたすきにかけ」に言うように、文字中の兆型(X字型)で示される力場(の空域)をつくり、「アメノマ(目もしくは間)サキ(割き)をカヅラ(鬘)とし」すなわち、「目のような形に防御された領域を作り」、新しい存在状態を機体の周りに発生するというわけである。
つまり、アダムスキー文字のシンボルは、機体やエンジンの形状を語るのではなく、UFOが稼動して二次的に発生した力場の有様なのである。「鬘」というのは頭を保護するかぶりもののことで、この話が民衆に記憶付けされるために、マサキノカヅラという樹名がつくられているが、実際はとてつもない代物の連想記憶用言葉なのである。
また、葛城の山というのは奈良盆地の西のとりまきの生駒山系をいうのであるが、これはまさに西からの悪疫を阻止する防壁の山並と考えられたものであった。
 さらに「アメノウズメ(渦目)」はこのような力場稼動の有様を総括するものであるが、大変なのはこれが「うけふせて」にいわく、うつろな箱のような天の岩屋戸の上に載っかる格好で、きらびやかに振動しているというのである。(「うけふせて」はうつろな箱の上に置くという意味)これは図2・5中の眼型の下にある箱の図柄に示されているではないか。
また、黒い部分(まだら)は何となく半開きの岩戸そのものを示すようである。つまり、天の岩屋戸の外観さえ描いているわけだ。そこは禁忌である意味の白黒のまだらにもなっている。
このように、アダムスキー文字と天の岩戸物語は、対になって、ようやく意味するところが把めてくるのである。
 現代の様々な目撃報告の研究からUFOは異次元航法をとるという情報がもたらされているが、これは以上の言葉の解釈を妥当なものにすると思われる。「天の岩屋戸」は宇宙機が航行していく次元のトンネルとみてよい。
次元のトンネルはトーマス・ペアデンに言わせれば、虚状態で実現するといい、古代人が空虚な箱にみたてたのも的を得ていると思われる。そして、「ふみとどろこし」に示されるように、力場が共鳴を起し、「神がかりして」に示されるように、機体が励起状態にあって始めて、時空の縛り(面のひも)を解くことができるというのである。
 また、この箱の図柄やいくつかの紋様に過不足のあるピンターダ文字(図2・6)は、多分、非励起状態にある宇宙機の説明図ではなかろうか。

眼型のまわりの種々の草文字は、「八百萬の神」として対訳中では宇宙人と訳したが、次元飛躍現象を生起するために用いられる物理法則と解した方が望ましいかも知れない。とにかく、図2・5、図2・6は宇宙機の動作原理を説明したものと捉えられる。
拙宇宙モデルでは、このような現象は、プログラムの慣性的な成りゆきを乗り替えていくというやり方の一環で把握できることを申し述べておく。(拙時空論参照)
さらに当時(1970年代のUFOブームの頃)は、これ以外に金星人の残した靴の跡というのもあった。これは地球が宇宙機になる機構がどこにあるかを示すものとして、想像を馳せたものであった。そこにも目型の機構が示されている。その場所とは、奇しくも謎の消滅事件を起こすバミューダトライアングルの海域であるらしいことが分かる。





穀物の種





遺産を持ち越した者にまつわる伝承

  

     これはノアやシュメールのウトゥの事績を語るかのような
    知識の持ち越し者の存在した話である。
    スサノヲは追放された後、オホゲツヒメの神に食物を乞お
    うとした。オホゲツヒメは鼻、口、尻から種々の美味しい
    ものを取り出して料理を作り差し出すと、その振る舞いを
    見ていたスサノヲは、汚いものを差し出したと思い、オオ
    ゲツヒメを斬り殺してしまった。だが殺された体からは穀
    類が生い出でた。頭には蚕、両目に稲種、両耳に粟、鼻に
    小豆、陰部に麦、尻に大豆が。そこで神産巣日御祖命がこ
    れを惜しんで取り、種にしたという。
    この種が次の年に播かれることが暗黙の了解となっている。
    
    稲、粟などの五穀は、大過去の物質文明の生産物、技術成
    果の象徴である。それらの生産物は、現代をみても分かる
    ように、多様で面白いものである反面、汚いものであった
    ため、大変災(乱暴な大地の摂理)がこれを抹殺する
    結果となった。しかし、それでは余りに勿体ないため、隠
    れた知識者が過去の知識を取りまとめて、次の時代に文明
    の種子として持ち越したという解釈となる。伝承のウトゥ、
    オアンネス(シュメール人に文字、法律、幾何学、都市造
    りなどを教えた)、エジプトのトゥト、あるいはノアがそ
    れであった。この知識は新しい時代の当初は万民の所有す
    るところであった。ところが、神の方針転換により封印さ
    れ、現代に至るまで解かれたことはない。ただし、一部の
    者には、神のエージェントになることの引き換えに付与さ
    れたもようである。彼らは神の計画に従って、その中から
    時に応じて必要なヒントを人々に流出させた。現代の爆発
    的な文明の有様もそうやって演出されたとみられる。


 





俣大蛇(やまたのおろち)




 


火山活動を鎮静させた偉業と安定基盤造りの時代


 

お馴染みの話なので、物語の内容は詳しくしないが、指導的立場の神と恩恵を受けるべき人が地上にともに居た時代のことを語っているとみられる。

前段までの話のスケールからしても、これは決して出雲地方のタタラの民征服の歴史などを語っているのではない。
ヒッタイトの竜神嵐神の戦いの神話、シュメールのティアマトとマルドゥークの戦闘神話、ギリシァのオリンポス、ティターン神族の戦いの神話と同根、同レベルの話なのである。
ギリシァ神話の場合、天地創造の初期にティターン神族である大地(ガイア)が天空や海、噴火山(サイクロプス、ヘカトンケイレス)を産んだが、後に天上の神々によって強伏されて地下(タルタロス)に幽閉されてしまうが、これらは火山の形容なのだ。

つまり、ここでは、かつての大変災の余波である地殻変動、火山活動激化が大蛇の乱暴で示され、それを守護精神をようやく発揮したスサノヲ神が、ある方法によって平らげた事績を語っているのである。
それは、各種のマウンドをわざわざ造り、そのエネルギー変換効果で地殻エネルギーが解放され、暴走しがちな火山活動を和らげ、ひいては生態系に安定基盤が与えられたという話である。

時折話題になる日本のピラミッドはこの一環で作られており、後の古墳なども多少の意趣を残しているのである。

地殻変動抑制システムを設置した時代の話

 

原文‥八俣の大蛇(前)
かれ遂はえて、出雲の国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。 
この時に、箸その河ゆ流れ下りき。ここにスサノヲの命、その河上に人ありと思はして、求ぎ上り往でまししかば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣く。 
ここに「汝たちは誰そ」と問ひたまひき。 
かれその老夫、答へて言さく「僕は国つ神大山津見の神の子なり。僕が名は足名椎(あしなづち)といひ、妻が名は手名椎(てなづち)といひ、女が名は櫛名田(くしなだ)姫といふ」とまをしき。 
また「汝の哭く故は何ぞ」と問ひたまひしかば、答へ白さく「我が女はもとより八推女ありき。ここに高志の八俣の大蛇、年ごとに来て食ふ。今その来べき時なれば泣く」とまをしき。 
ここに「その形はいかに」と問ひたまひしかば「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり。またその身に蘿また桧杉生ひ、その丈谷八谷尾八尾を度りて、その腹をとみれば、ことごとに常に血垂りただれたり」とまをしき。 
ここに速須佐の男の命、その老夫にのりたまはく、「これ汝が女ならば吾に奉らむや」===中略=…・ここに足名椎手名椎の神、「然まさば恐し、奉らむ」とまをしき。 
 

 

火山の猛威による良質の土地の減少
 

暴虐な行為を行った結果、天上界を追放されたスサノヲは地上圏に降りてくると、守護者の性格をあらわして大地の工作者となり、民族の英雄となる。彼はまず地上(出雲の国)に流れ込む理念(ひ)の河の上流に何事かがあることを知る。

河の流れが理念の天下る流路にみたてられている。流れてくる「箸」は「橋」でもあり、理念の原型が現実のものとなる前段階の兆候とか前兆という意味のことである。

スサノヲが上流に赴くと、そこには苦悩する人類の集合意識(泣く老夫老女およぴ童女)があった。わけをたずねると「八俣の大蛇」という怪物が来て毎年のように娘を喰っていき、今またその時が来たので悲しんでいるのだという。このため、彼は天から降りてきた者であることを明かして、怪物退治の一計を案じてやることになる。

「八俣の大蛇」とは、目が赤く輝き(赤輝地:あかかがち)、身一つに多くの山河を被り、腹からはたえず血が流れていた、と形容されるように、多くの火山を抱える火山帯の象徴である。(図2.9)

これに対し、娘の「櫛名田姫」は「奇し、稲田」(書紀)で、良質の耕作に適した土地のことである。

それまでに多くの娘が食われたというのは、火山活動の猛威により良質の土地が多く火山灰や溶岩土の下に埋没したことを示しているのである。無機質かつ酸性土である火山灰土では農地として不適であることは言うまでもない。

このような事態を哀れに思った守護者(ここでは天降した地球外知性であろう)が救助するのだがその方法は超現実的なものであった。信じ難いかも知れないが、この解釈により古代の遺物や宗教思想の謎が氷解してくるのである。
 
 

 
 

原文‥八俣の大蛇(中)
ここに速須佐の男の命、その童女を湯津爪櫛に取らして、御髪に刺して、その足名椎、手名椎の神に告りたまはく、「汝等、八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つのサズキを結ひ、そのサズキごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待たさね」とのりたまひき。かれ告りたまへるまにまにして、かく設け備へて待つ時に、その八俣の大蛇、まことに言ひしがごと来つ。すなはち船ごとに己が頭を集り入れてその酒を飲みき。ここに飲み酔ひて留まり伏し寝たり。ここに速須佐の男の命、その御佩の十挙の剣を抜きて、その蛇を切り放りたまひしかば、肥の河血になりて流れき。 
かれその中の尾を切りたまふ時に、御刀の刃欠けき。ここに怪しとおもはして、御刀の前もちて刺し割きて見そなはししかば、ツムハの大刀あり。かれこの太刀を取らして、異しき物ぞと思はして、天照らす大御神に白し上げたまひき。こは草薙の大刀なり。 
 

 

火山活動を鎮めるシステムの創り方
 

宇宙から釆た知識者は、ある種の火山活動を鎮静する具体的な方法を地上の人々に教えてやる。

それは、「汝等、ヤシホリの酒を・・・盛りて待たさね」に語られている。ヤシホリは「八締火離」と分解でき、(火山エネルギーを)多くの部分で仕切って火勢を和らげる方法。

この部分の意味は、「お前達、火山帯の活動を鎮めようと思うなら、垣根を張りめぐらし、その垣根にたくさんの門(かど(角こを設け、その門ごとに供物台を組み、その上に酒船(逆船)を置いて、ヤシホリの仕組みを仕掛けて待っていればよろしい」ということになる。

そこで足名椎たちはその通りにして待っていたら、確かにオロチはやって来て、酒船に頭をつっ込んで酒を飲み、酔っ払って寝てしまった。
これは、オロチの動き(火山活動)が活発になると、この仕組みが自ずと作用して弱らせてしまう働きをしてくれるというのである。

この後、スサノヲが大蛇を切り殺し、体内からツムハの大刀をとり出すが、ここにも重要な意味がある。ツムハは「摘む歯」で去勢の意、この別名クサナギは「隠騒凪」で隠れた暴動の鎮圧の意、さらに別名ムラクモは、次のように火山鎮静の原理を如実に示す。

つまり、雲塊の群らがる様子のことなのであるが、古代の「雲」という言葉にはただならぬ意味がある。クモのモは、形をとる基になる要素のことで、今様に言えばエネルギーのこと、これに具体を意味する「ノ」がつくと物体(もの)を示すと同様に、潜在を意味する「ク」がつくと不可見のエネルギーを示すものとなる。(ちなみに古事記では、空中に水滴によってできる雲を「アメシルカルミヅ」と呼びその成因を明らかにして使い分けている)

古事記に影響を与えていると思われるゾロアスター教では、これをメーノーグ相にある不可見な物質状態として、形を併うゲーティーグ的なものとは区別している。これは非物質というのではないが、可見な物質状態よりもより繊細であるために不可見な、いわゆる霊質とか「気」を意味するという。
この種のエネルギー状態は古代において世界共通に知られたことであったようだ。

また、大蛇(火山活動)を切り殺す筋書は先程のヤシホリの説明を再びくり返している。このことから、スサノヲが造らせた仕組みそのものが大蛇退治を直接おこなうためのものと考えることができる。
まとめると、火山活動鎮静の原理は、「地エネルギーを細断して無形のエネルギーの群塊にして取り出す」ということになる。
 

 

 
現存する大蛇退治の驚異的な仕組み
 

その仕組みが具体的にどのようなものであるかは、言葉を丹念に見ていけば分る。加えて、実物が存在していれば分り易いことはない。

筆者は、これより前に日本列島上におびただしく存在する規則的な不可視のライン群を発見している。これは、古来より信仰を集めた神体山、神社、巨石モニュメント、古来から残る特別な地名、門前町的都市などを結んで得られるもので、特に出雲地方を中心に調べたためか、この辺りに密度が高いように思った。(図2・10)


このライン群に関する意義は後程述べることになるが、このライン群と前述の「垣根」とが同じものを意味するのではないかと思うのである。

「酒船」は「逆船」でありちょうど船を逆さにしたような秀麗な山のことであり、古来より信仰の篤かった神体山は汎そ「逆船型」である。

神体山には後世になって対置するように神社や仏閣が造られたが、もとはといえば「サズキ」たる神体山を介して高みにおわす神を祭るというものであった。それが形式化と「みたて」の後退によって、社殿式へと遷移したのである。だが基準となる法則は、余程後世のものでない限り、遵守されていると考えられる。

また「門」というのは、「角」であり、線描の交差点のことではないか。それも形の良い直角というのが本当であろう。つまり、「垣根」も「門」も、このライン群の外観を大局的にあらわしたものというわけだ。スサノヲが提示した火山鎮静システムの設計図面の特徴を身近な言葉に言い直したものと理解できるのである。

図2・10はそのうちのごく一部分にしろ言い表わせていると思われる。だが実物はもっと計算し尽くされた精致かつ細密なものであろうし、「出雲」自体西日本の地域にとどまらぬ世界のことを述べたものであるから、全貌を把むことなど途方もないことである。
 
 

 

 
重大発見の裏には重大な裏付けあり
 

このライン群に関する重大発見は、次の六点であるが、これを応用して引ける多数の平行なラインにもやはり重大な符合が見出せる。

一、大和の南北のライン山上には、名所旧跡が、ちょうど緯度十分の等間隔で並ぶ。

二、その地点から東西に引いたラインに太陽の道と言われた北緯342’を含む(6)から(14)がある。中でも(6)は出雲、大山、元伊勢など神体山や神社の集中したラインである。

三、九州斜断のライン(2)は(1)と類似パターンのうえ、地名が等間隔である。(図2・11参照)

四、ライン(2)および
これと直交するライン(5)は古事記の「天孫降臨」で裏付けられた確実な証拠がある。その上、重要な地点が九州上で巨大な直角二等辺三角形の幾何学図形を示している。

ニニギの命が筑紫の日向の高千穂の霊峰に降臨したときの言葉、「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直射す・・・」に韓国、日向、笠紗の三地点が示され、前後併せると筑紫(福岡)、高千穂もこのライン上の拠点となっている。そればかりか、筑紫-日向と日向-笠紗が日向で直交して等距離となっているのである。(図2・12参照)

 

ここで「ま来通り」が直交を意味し、(「巻き」か「真切」か「曲ぎ」)
重要な測量概念であったことを物語っている。

五、「ま来通り」を応用して、ライン(2)と志賀島で直交するライン(3)は穂志倭人伝の地名、恰土(伊都)、松浦(末廬)、そして、須佐の男系の祭社、宗像、出雲を通り、山陰の海岸線を奇麗になでて、東北方へは十和田湖南の環状列石付近にまで至っている。同時にこれは大和朝廷が征服を
目録んだ北限を意味していもする。

六、ライン(2)上の志賀-高千穂の線分を7対6の比でとった日向神で(2)と直交する(4)は「神武天皇の東征」で示される地名を通り、同時にやや小さめの直角二等辺三角形を形成する。(図2・12参照)そこには、東征に関する「計画の高千穂」、「起点の日向(神)」、「筑紫」、そし
て「宇沙(今の宇佐)」が二つの三角形で与えられている。

これらは、決して偶然のものではなく、航空写真でも用意しなければ分らない程の地点の設定をやってのけているのである。通常の測量術でも、山岳の多いこの地方でこのスケールで距離を出そうとするのは無理と言ってもいい。ちなみに、7対6というのは、この緯度帯における緯度一度と経度一度の距離の比であり、ライン(2)の角度もこれに一致している。

その他のラインについても意義を揚げればきりがないはどに重要なものが多い。

筆者が明らかにしたのは、ラインの角度であり、これに二種類あることと、これに直交する二種類のあることであり、これにどのような意味があるのか、これ以外の角度があるのか、日本以外あるいは緯度帯によって異なるのかといったことに尽きぬ疑問が残る。

ただ、等緯度帯のオリエント地方では、ライン(2)と一致する角度のラインがシユメールの古代都市の並びにはぼ一致している。これは、歴史的に旧い物を尊ぶ考え方が日本民族渡来の時の九州の地理確定に影響したとも考えられる。
 

 
 
 
 

大蛇退治の遺構、築山らしい山は西日本の各地にみられる

次に神体山のような山が人工築山なのかどうかという疑問がある。西日本地方は河川の侵食でできた隆起準平原であり、まろやかな山容がもとより在ったとするのが適切かも知れない。筆者が地元から兵庫県の中部を調べてみたところでは、この地方にピラミッド群がおぴただしく存在することが分っている。それだけに、神社の数も多く、過去に都が置かれたとしてもおかしくない風土である。(図2.13参照)

兵庫県氷上郡を中心にして、小高い山波が臨まれるが、この中に意図的に方錘型を目ざしたと思われる陵線の張り出しのある小山が多く含まれている。エジプトやアンデスのものと基本的に異なるのは、もとあった平担な山に手を加えて形を整えたとみられることである。

高さは二十m~二百mはどであり、最多は四十m級である。数は正確には把めないが、県内だけでも百体を下るまいと思われる。

形態は単独であるもの(最も少ない)、山並添いに東西または南北に連なるもの(多い)、大小順に階段状に連なるもの(最も多い)、山嶺をふもとでとりまく格好のもの、元の素材が長円型のためか二段階に構えたらしいものなどがある。(写真1図2・14参照)
 

ただこれらが本当にピラミッドと呼べるかどうかであるが、サンプリングして調べたところ、地面と陵線のなす角度は、三十五度がほとんどで、側面の表出しているものは、ほぼ東西または南北の方向に沿っていることが分かった。

また、そのうちの階段状の一例に登ってみたところ頂上に方位石とみられる岩の一角が見つかっている。現地の山は杉の植林か自然林で立入り難く、一例に滞まったが、その他のものについても同様であろうと思われる。

角度三十五度が本来のピラミッドの条件に適わないとされるむきもあろうが、エジプトの五十二度は測量の技法に車輪が使われたためとする説もあるわけで、方錘型が重要であるのみならより安定な三十五度の方が地震国日本にとっては、また砂山だけでも事足りる簡易さから言っても、本物であるような気がするのである。

ゆるやかな起伏に富み柔軟な砂岩質のこの地方の山岳は加工し易く目的の形にするには都合が良かったと思われる。この一帯では加工物と非加工物の差がはっきりと分かるので、多くの人が作為性を覚えていることと思う。そして、秀麗な山には多く、神社が対置するように設けられ、古来より神体山であったことを窺わせている。

また、氷上を中心とするマウンド群は既述の南北に引かれるべきラインに沿って帯状に広がっている。(ラインとは言っても厳密なものではなく、或る幅をもった帯域であることに注意)

この真南には神戸市垂水区の雌岡山、雄岡山の夫婦マウンドがあり、この帯域への飛行艇の進入灯を思わせるような神体山である。しかもこの地には須佐の男の命が櫛名田姫と連れだって降臨し、土地の人々に農耕を教えたという伝説があり、(写真2)このラインが、より一層大蛇退治と結びつくことがお分かりになるだろう。

また、地名の類似性についてみると、氷上(ひかみ)は日向神(ひうかみ)に相当し、中(なか)は郡河川(福岡)、春日や三和は九州、奈良とも同じである。また、青垣は古事記で三輪山と結びつけられて、山に重点の置かれていたことが分るのである。

さてライン群の関係からすると、このマウンド群の存在は西日本、さらには日本全土に広がっていると思われる。車窓から気付いた個所として、琵琶湖南近江地方にそれらしさを見出している。
 

 
 

 
 
 

原文‥八俣の大蛇(後)
かれここを以ちてその速須佐の男の命、宮造るべき地を出雲の国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りましてのりたまはく、「吾ここに来て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮作りてましましき。かれそこをば今に須賀といふ。この大神、初め須賀の宮作らしし時に、そこより雲立ちのぼりき。ここに御歌よみしたまひき。 
その歌、 
や雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を (歌謡番号一) 
ここにその足名椎の神を召して告りたまはく、「汝をば我が宮の道に任けむ」と告りたまひ、また名を稲田の宮主須賀の八耳の神と負せたまひき。 

 
 

 

火山活動鎮静システムのその後

原文では、スサノヲの命は大蛇退治の後、めでたく櫛名田姫と結婚して出雲の須賀という所に出雲八重垣なる宮殿を造り、その景観を愛でて歌を詠む。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を」

古事記の歌謡の一番目にあるこの歌は、全文が易しい暗号で成り立っている。それは語られていることの重要さを繰り返し強調すると共に、古事記自体が一連の暗号化文献であることをほのめかしているのである。

「やくもたつ」は「たくさんの雲が立ち登る」の意で、単に枕詞ではない。(雲はもちろん空の雲ではない!)

「出雲八重垣」は、忠実に訳すと「雲を生成する多重の垣根」ということになり、先述の大蛇退治の垣根と無関係ではない。さらに「妻隠みに」が「妻を守るために」の意で、良質の農耕地(櫛名田姫)を保全する意味となるので、かつての垣根と出雲八重垣は同じものを示していることになる。

つまり、この物語は、筋書きを基にしつつも筋書きを超えて、出雲八重垣の存在により、大蛇のスタミナが奪われ八雲として立ち登り、そのおかげで妻が守られているという関係を二回以上繰り返して強調しているのである。

このような角度を少しづつ変えながらおこなう繰り返し強調法は、「身禊」~「天の岩戸」を通じて再生の過程を示したり、「神々の生成・後段」~「黄泉の国」で終末的世界の有様を示したりするのに用いられている。

さて、歌の解釈を通しておこなうと、「大量の不可視なエネルギーを立ち登らせているエネルギー涌出の八重垣は良質の土地を守るために幾重にも垣根をめぐらせて作ったのだ。どんなものだ、八重垣の威力は」となる。ちなみに歌末の「を」は、古典字引きに載らない「力」を示す接尾語である。

結論として、出雲八重垣とはマウンドを基調とした線描であり、客観的に垣根に見えるもののことである。これが地エネルギーを無作用なものに変える大域的なエネルギー変換綱を形成しているというわけである。

要所(門)に置かれた山やマウンドを個別にみれば、エネルギーを変換し、分散する極ということになるが、それは山の名前に顕著に表現されている。三輪山は、「倭青垣の東の山」とされる八重垣の重要拠点であり、別名、御諸山というが、「みわ」は充足するパワーのこと、「みもろ」は相を変転するの意があり、エネルギーコンバーターというわけである。

兵庫県の三室山も同義である。古代人は決して思いつきや勝手気ままでなく、機能するところに応じて適わしい名前を付けているのである。(みわ=満・力、みもろ=身・面・転)

こうして、先述のライン群にも、「出雲八重垣」と命名できそうである。また、「出雲の国」とは、エネルギッシュな国ということになり、島根県にとどまらない不特定な大域を示していることがお分りになろう。

出雲八重垣は、大蛇退治をおこなうシステムであり、基盤になるマウンド群が破壊されない限り半永久的に動作し続けるはずのものである。
古代知識人の努力は、これが破壊されないことのためにも払われた。

一つは神体山として祭り、禁忌の場としたことであり、いま一つはそれ自体墳墓化して慰霊の場とし、後世の人々の良識に委ねたのである。

だが現代ではそのようなことも忘れ去られて、かってのスサノヲがしたように、田や畔を壊し、溝を埋めるような行為を繰り返している。それを「より良いことをしているのだろう」と決め込んで黙認した結果、大異変が起こっていることも既に述べた。システムがどこまで持ちこたえるか、心配なことではないか。(写真3)

 

 
人類は地球の主人ではなく番人であった
 

さて、八重垣システムの製作に関して、スサノヲは計画立案し、製作は主として足名椎手名椎たちにやらせている。だが彼等の関係は、為政者と民のそれではない。

なぜなら、この後にスサノヲは足名椎を召して宮殿の管理人(宮の首)に任命しているからである。つまり、スサノヲは、文明のれい明期に世界の各地に突然人々の前に現われて有用な知識を授けて後を託して立去った賢者に相当し、足名椎たちはそれ以降「みたて」に秀でることになった古代人なのである。

先述の雌岡山のスサノヲ降臨伝説ともこうして符合するわけである。
ちなみに、「足名椎、手名椎」とは「土ならし」の意味であり、機能するところに応じて付けられたプロジェクトチームの名称であったことが分る。また、「八耳(やつみみ)」とは、たくさんのマウンドや巨石碑のことである。

ところでいま一つ、スサノヲはもはや居ないのかどうかということにも、触れておこう。スサノヲは表向きの支配権を譲ったのであり、彼自身は櫛名田姫すなわち有用な大地と共に居て、システムの効果的な動作をみそなわしているはずなのである。

ずばり言うと、スサノヲは国神かつ地神であるが、ここでは天降した者すなわち宇宙人かも知れない。スサノヲの経歴からすると、かつて地球に居て、宇宙に往き、そして戻ってきたとするのが適切かも知れない。すると、かのイザナギの脱出の時に救済された人々が温情的に戻ってきて啓蒙活動をしたのかも知れないわけだ。

とにかく私達は私達人類だけで地球を牛耳っていると考えるのは大間違いである。私達は未だに大地の管理人(番人)の末えいであるにすぎないことに注意したいものである。
 

 
 

 
火山鎮静システムの活在を示す証拠
 

現在でも判別がつくスサノヲの企画、これはその遺構の存在と共に火山活動鎮静が今なお行なわれていることを示すものである。

このシステムの効果、実在牲は、一方で火山活動抑制の効果に加え、もう一方で涌出してくるエネルギーの作用の痕跡を調べることによって分かるだろう。

前者はスサノヲ以前のデーターが無いと比較できないし、後者も不可見であるというのでは手の施しようがないという感がある。だが、いささか気味の悪い話かも知れないが、前者は自然破壊が促進された結果として、近未来に効果の中断としてあらわれてくる可能性がある。

また後者も、従来の科学では説明できないようなところに現象が吐出している可能性がある。
まず、効果の面からすると、日本の全域、特に西日本に多く火山活動の抑制がなされていることになるが、中国、四国、近畿に著しい動きがなく、白山火山帯が存在しているとはいえ、大人しいのはこの理由によりはしないか。日本の他の地方も決して著しくはない。

しかし、近頃、山野は宅地造成や海岸埋立ての名目で乱開発を受け、古代智に基づく多くの有用なマウンドが破壊されている。これが原因となり地殻変動期が再来する可能性が増大しているはずである。最近、地震学者により日本の火山帯が活発期に入ったと報告されているのも、決して無関係ではあるまい。

数年前から、有珠、御岳と噴火し、つい一年前には兵庫県北部の神鍋山で地熱上昇による避難騒ぎがあったが、この辺りはシステムの心臓部なのであり、八重垣が衰えをみせている証拠と考えられないか。

次に、不可見なエネルギーによると考えられる現象を揚げると、第一にUFO現象がある。
目撃されるUFOの多くは宇宙人の乗物ではなく、放出エネルギーの光物質化現象であろう。地球外知性は確かに居るが、人間の願望、偶然、過剰エネルギー放出などで引き起こされるものも多いのではなかろうか。

例えば元伊勢の外宮には節分の夜毎に青白い光塊が立ち登るので、「龍燈の杉」と名けられた神木があり、ここから南の神戸市の丹生山には、瀬戸内海をゆく船が暗夜で航路を見失ったときに丹生明神に祈ると灯明をともすと言い伝える「灯明杉」なる神木があった。これらは、システムのラインに沿って起るエネルギー放出によるものだろう。それも地震の場合に似た周期性を伝承のうちに伺い知ることができる。地エネルギーとしての元の性質を端的にあらわしているのだ。

また、地震の予兆として起ることのある山の発光現象や稲光りなども同様の理由であろう。
ちなみに火山エネルギー等に関して次の等式が成立つと思われる。

地の歪エネルギー=システム変換エネルギー(無形)+地震・火山エネルギー
システム放出エネルギー=不可見なエネルギー+光物質化エネルギー

このエネルギーは、最もオーソドックスな電磁エネルギーに変化し易いのである。

また、放出エネルギーは、ライヒのいうオルゴンやヨガでいうプラナと同じものかも知れない。
ライヒは、オルゴンを雲に照射して穴を開ける実験結果を得ているというが、規則正しい網目模様や平行線を描くという地震雲は、システムのラインのパターンの反映と考えられなくもない。

また、日本上空の雲の出来具合いが図2・10のラインに平行した格好になり易いことが「ひまわり」の高空写真を調べると分る。図2・15右は冬に多いパターンであり、季節風の吹き出しによるとされているが、天気図の等圧線との関係がほとんど無いから奇妙である。
また、図2・15左は偏西風によるとされているが、この角度より乎担なものが少ないのはなぜだろう。

また、オルゴンも、プラナも生命体に有用であり、特に意思力に反応してその実現を助ける役割をもつと言われている。これを肯定するように、垣根の節目には神社、霊峰、都市などがある。

神懸りのし易さ、超能力開発、精神修養のために有用な霊気が豊富であることから神社造営の地が選ばれ、修験者の行場となったのではないか。また、動植物の生育の良さや思考活動のし易さ、ひいては住み易さのゆえに人々が本能的に集まり、都市を形成するに至ったとも考えられる。

ところで、古代人はこれ程のエネルギーを利用しなかったであろうか。
ヨーロッパのメガリスには神秘的な力が認められるため異様な名前をもつ巨石が多く、触れると痛みを覚えたり、治病力をもつものもあるといい、石の形質、配置などにより様々な形態でのエネルギーの取り出し方が可能となっていたようである。

巨石建造物は巨石の組合せにより、マウンド等から放出されるエネルギーを目的に応じて導き、流動せしめる機能を持つと考えられる。石土造のマウンドなどがシステムを担っている以上、同類の巨石碑も何らかの効果を持っていなくてはなるまい。

さて、人工であるか天然であるかは別として、先程(28)のラインに沿ってある恵那峡および上流の苗木城はメガリスである。このラインは、実は地元のUFO研究家によって、UFOの通り路と言われたはどの発光体の出没ラインなのである。

これは、かの三輪山に接続している。筆者の考えでは、これは線上の各拠点がちょうど真空管のカソード、グリッド、プレートのような機能を相補し合い、地表上でのエネルギー的均衡を保ち、この結果、地殻内部をなおも安定にしていると思われる。

それはあたかも針灸により表皮に刺激を与えて、内臓の具合いを良くする方法に似た効果なのではないか。これは、古代人の利用というよりは地球的規模の大目的利用であるが、似たような方法が農耕のために用意されていたようである。

西日本各地から大量に出土している銅鐸は、巨石と同様に補助的役割を果していたと考えられる。土地は外観的に同じでも場所によって耕作に適不適のあること(イヤシロチとケガレチ)は知られている。この原因はこのシステムのもたらす波状的なエネルギー過不足により、その局地的是正に用いられていたのが銅鐸、鋼剣などでありはしなかったか。

こうすれば銅器がなぜ土中に埋められる筋合いのものであったか、その謎の一半は解明できるものと思う。もしそうなら、銅鐸は掘り出したままにせず、元あった場所に埋めておくのが本当であろう。

まだまだ、我々の知らないエネルギー理論はあるに違いない。古代人は石土造建造物に感覚以上のものを見出していたことは確かであり、さもなくば世界各地に残されたマウンドやメガリスに対して情熱をかけた古代人の努力が何の意味もなさないばかりか、永久的に未知の扉に閉ざされてしまうだろう。

古代人は共通して「みたて」の民族であった。しかし、「みたて」の基になった知識あるいは超感覚は本物であったと思うのである。

無形なエネルギーは有形な資源へと変換されれば、地球が保証する無尽蔵なものとなりうるが、我々の科学がその域に達することはまだまだ難かしいと言わねばならない。

 

 
古代山城は超古代マウンド造営の模範例
 

ところでその後このマウンド造営を物語る証拠が、NHK総合TVの「知られざる古代」という番組で放送された。主題は古代山域として採り上げられた西日本に散在するマウンドのことである。

それらはいづれも山の頂上付近に神籠石(こうごいし)なる摩かれた石材を列石に組み、その上に土を盛って、これを隠すという(図2・16)いわゆる版築という方法で土塁が築かれていて、山の名も、鬼の城(きのじょう)とか石城山(いわきさん)とか「キ」という音を含む特徴をもつとい
う。

またこれらの山は古来より信仰を集めた磐座を頂上にいただく神体山であったことも知られている。
筆者の考えでは、この神籠石なる石垣こそ、スサノヲの発言にあった「サズキ」(供物台)を意味すると思われる。石垣に組むことを「サズキを結ふ」と言ったのだ。そして、これは逆船形に土盛りがされて隠されたのである。丹念に磨いて作られた石がどうして最初から土中に埋められる筋合いのものであったか、その一見不合理にみえる築山法の真相こそ、八重垣という大目的のためにあったことを証し、我々の知り得ないエネルギー理論に根拠されたものであることを示しているようだ。

また、山名に「キ」のつく理由は、「サズキ」が「捧げる城」(授城)を意味することからきているようである。

ところで、筆者は、この例として岡山県総社市にある「鬼ノ城」に行き、いま一つ異なった発見をした。

筆者の考えでは、「鬼ノ域」の構造は、土台をなす三メートル以上の巨石が土中深く塁々として築かれていて、その上に土砂が盛られ、なおも一メートル以下の小さな石が石組みとして山項をとりまくような格好で築かれ、なおもそれに砂がかぷせられたという感がした。つまり、時間とスケールを異として二世代のものが同居しているという具合いなのである。(図2・17)

 

これと良く似た例で、小岩の方が無いものを、中部地方、恵那峡上流にある苗木城(なえき)にみることができる。

ここも「キ」が付く名であるが、戦国時代に地の利を生かして山城として利用されていたという記録はあっても、古代山城が最初ではないようだ。
つまり、日本古代のれい明期に築かれたものこそ、第二世代の小岩群であって、第一世代のものは、もっと前に存在したのではないかということだ。

そもそも苗木域の場合の大岩は、直径四~五メートルもある巨岩であり、運搬できる筋合いのものではない。これこそ、スサノヲが為した功業というべきではなかろうか。

また、苗木城がもと神体山であったことは、この真北にある丸山神社が物語っている。境内には蛙や恐竜を型どった奇岩がみられる異様な辺つ磐座をかもしている。(ゾ教との関係もある
苗木はゾロアスター教遺跡か?

このような、巨石組みの山は、日本の随所に存在すると思われる。これに対し、小岩組みは民族の伝搬に併う後世のものだから、西日本に限られると考えても良いだろう。

また、いま一つ、スサノヲの言葉は、小岩群にも生きているのである。巨石群でみた言葉の意味づけと小岩群のそれの関係は図2・18のように示せる。

これは一種の縮図化現象である。「垣」を石垣としたなら、「サズキ」に相当するものも現地に存在していて、山頂に向けて設置されている。「酒船」もかつてその上に置かれていたものかも知れない。

だがこれは後世のものであり、周りにはそれより以前のものが土台を形成しているのであり、時間的に大きく二段階にくびれさせて、相似形に縮図化されているのである。(それがなおも後世には神道で用いられる木で結った「サズキ」へと転進している)

それはまるでギリシャ神話でいえば、チターン時代から現時代に移った同一思想のものをスケールを縮めて重ねているといった具合いである。我々の時代の古代は、より古代のスケールの巨大さに圧倒されて縮図化してしまっているのである。

ここに次表のような世代的変遷をみるのである。

 

 
 

 地球的規模の大改造
事業

ブルース・キャシーによると、不可視なエネルギー綱がある種の数学式に従って地球上をとりまいているという。披は、ヨーロッパのメガリスや、バミューダの謎の海域の位置などがこの計算によって割出せるといい、UFOの出現が綱の交点に集中することから、UFOのエネルギー補給網の可能性を説いている。筆者はその計算式が未だによく分らないが、もしかしたら、例のライン群との一致が見出せるに違いないと思っている。そればかりでなく、八重垣の設計原図により近いものが期待できるだろう。

古事記に書かれる限りでは、出雲八重垣なるエネルギー網は、地殻のエネルギーを柔らげるべく、須佐の男に象徴される宇宙人乃至は賢者が企画し、足名椎手名椎という優れた造成プロジェクトチームを古代人の間で組織して、八耳なるたくさんのマウンドを築いたというのである。西日本各地に残る「鬼の塚造り」伝説は、この事実が素材になっているとみられる。
 
 

「八俣の大蛇」の段は、続く「須佐之男命の系譜」の段以降の、人類(大国主命)への大地の管理権の委譲へと繋がっていく。

そして、大国主命に示される農耕人類の時代となる。
それは黎明のシュメールに始まる非常に長い忍耐と質素な豊かさの歴史であり、時として異星人との協力関係や漂泊の歴史(大国主命の漂泊の歴史)をも中に含みつつ、華美で賑やかで短命を宿命とした天神系の時代の到来に至るまでのあいだ続くのである。
日本では、天つ神の系統の大和朝廷にとって、先住民である縄文、弥生人の時代が大国主の時代と捉えられたであろうし、また別の解釈によれば近世までをも指すと考えられる非常に長い基礎充実の時代であった。


須佐の男の命の系譜




 

 須佐の男の命の系譜は原文、対訳ともに省略する。この節では須佐の男の大地の工作者としての後嗣を継いで、治山、潅漑、農耕に関した表現がおこなわれている。しかし、その表現は、意味不明なものが多く、他書を参考にすべきものもある。また分るものについては、スサノヲの系譜らしく、スケールの大きなものとなった。事業のジャンル別に次に解釈を施してみる。

(治山)
オミヅヌの神‥八束水臣津野(書紀)
 各地からマウンド造りの材料となる土砂を運んできたプロジェクトのこと。特に平地を堀り起して後の農業用濯漑池としたので、水に関係した名がつき、山神、土木神であると共に農耕神の性格をもつ。
フノヅノ神
 威力ある角型のマウンド、すなわちピラミッドもしくはそれを造ったプロジェクトのこと。
フテミミの神(太耳)
 エネルギーを蓄える巨大なマウンドもしくはそれを造ったプロジェクトのこと。エネルギー変換量は恐らく、マウンドの大きい方が多く、形は平山よりは方錘型の方が効率が良いのだろう。

(潅漑)
日河姫
 川の水が干上っている様子を示す。
深淵のミヅヤレハナの神 
 深く水をたたえ、必要な時に放水する漕漑池すなわちダムである。

(農耕)
大年の神 
 長い年月をかけて植物が成育していくことを示す。
刺国大、刺国若姫
 狭い耕地をしだいに開拓し広げていくことを示す。多い段々畑。
大国主の神、オホチムヂの神 
 広い農耕地を得た古代人を示す。
アシハラシコヲの神 
 地上(葦原)を仕切る力をもった古代人の形容。
ヤチホコの神 
 大量の銅鉾、銅剣のこと。時として戦闘用に、主として祭祀用に使われた。
ウツシクニタマの神 
 銅鐸のこと。祭祀に使われた。「フテミミ」ゃ「フノヅノ」がその形の中に込められている。

超古代の志を縮図化した銅器

 鋼は古来より、物事を映す鏡と考えられた。銅鏡は、物の実像を映すものと、物の精神(理念)を映すものがあり、主として、後者の役割が大であった。
 鋼器のことを古代人は「ウツシ」と表現していたのだろう。その意味は「理念が反映して現実の姿を取ってあらわれたもの」であり、その指す対象は非常に広範囲かつ不特定である。たとえば「ウツシクニタマ」とは「大地の精神を反映した実物」であり、農耕民族そのもの(オホクニヌシ)をみたててあり、かつ(大地の工作者スサノヲの造らせた)神体山をみたててあるわけで、それを縮図化した銅鐸が見立ての祭器として作られたのである。
 また、オホクニヌシの別名、ヤチホコは確かに諸説でいうところの幾多の戦闘をあらわしている。だがそれがみたてられた仮物として鋼鉾が造られている。この鋼鉾は実際に斬り合いには使われず、祭器であった。
 鋼剣、銅鉾は、統治力の精神を反映するとされた。それを適当な土地に埋めて、平治、戦勝、豊穣の祈りを涌出するエネルギーに託すわけである。銅器は不可見な領域と古代人の精神をつなぐ「みたて」のシンボルであったのだ。そしてこの種の「みたて」がいかに理念の領域に影響をもつものであるかは、種々の宗教で取り扱われていることである。
 銅鐸は農耕の原点である秀麗な山容を型取り、同時に既述の一定の機能を満たすべく設計された利器であった。そこに描かれる流水紋、渦水紋は、不可見なエネルギーの効果的な流れを意図するものであり、それが現象上の水の流れにみたてられ、どちらも共に重要視されたわけである。狩猟、農耕関連の図柄は、やはりエネルギーの流れに託して豊穣を祈願するものである。また、時折男女二神が流水紋の起点に描かれているが、これは八重垣システムを見守るスサノヲ、櫛名田姫であると同時に、後述する大国主の命、スセリ姫でもある。そしてまた、水源の神としてもみたてられている。
 銅器は以上のように超古代の表わし難い事実をなぞらえて表現する手段として古代人の間で用いられている、いわば一種の縮図化された事物なのである。それは、はとんどの場合祭祀という形態でのみ用いられた。その祭祀というのも、エネルギーをコントロールするという実際上の効果を併ったものである以上、この民族(弥生民族)にとって銅器信仰がすたれることはなかったはずである。

 

 



[大国主の命に関する物語]

 前節のスサノヲの系譜のうち最後に登場する大国主の命に関する物語がここから始まる。大国主の命は、スサノヲの築いた偉業を引継ぎ農業を主軸として地上を支配していく新しい民族のことである。かつての大変災で人類は新規巻き直しをはからねばならなかった。今にいう旧石器時代をからくも演出していた人々の前に、かつてあった知識のいく分かをもたらす賢者があらわれ、風俗を正し、秩序を与え、農業の仕方を教えた。それを忠実に守ったのが後の大国主となる民族である。彼等は他部族との闘争や、当時活発であった火山活動に苦労してとても伸長できない状態であったが、賢者や宇宙の知性が援助に訪れ火山鎮静の方法を教え、出雲八重垣を作らせた。これにより安定した基盤が保証され、また戦闘手段も確立し、こうして他の民族を撃ち払い征服し、大地の支配者と言われるに至ったのである。それは実に長い期間存続した。その間に国家の存続が危くなるつど宇宙から援助がさしのべられたからである。
 この歴史的事実は今から一万一千年前~四千年前の出来事であると考えられる。(縮図化は紀元前数世紀から紀元二世紀頃にかけての日本史上の弥生時代にみられる)
(ホピや古事記の語る、人類のこの時代への出現から、世界への拡散、そして拠点した先々での国造り。その頃の清い志に感応して援助を差し伸べた賢者や宇宙の知性のいたことなどが語られる。その国の統治のあり方は霊的文明(奥つ火)と物質文明(辺つ火)の好バランスにより成り立ち、知恵の統治(ひしり、そほり)が行われていた。異界の科学(くまのくすび)を知り、生命科学の応用(いくつひこね)を果していた。それゆえ非常に長い期間の繁栄がありえたはずである。その歴史がなぜ出てこないか。理由は、何者かの命により、その優れた時代のあったことは、それ以後の時代に生きる者に、知らしめてはならないとして、隠蔽されたからなのだ。命に従い、過去の知識は神官層の秘匿するところとなり、彼らの系統をエージェントとする歴史支配は今なお続いている。名残は、ただわずかにエジプトやシュメールなどにおける遺物にそのよすがを見ることができるが、場違いな遺物(オーパーツ)と呼び、一顧だにしないのが今の文明人の作法になっている。だが、人はみなレベルを落とされて在りと知らなくてはならない)




因幡の白兎 

農耕民族の台頭 

 この物語はおなじみであり、原文、対訳、語訳を省略する。大国主の命には兄神が多く居たが、みな土地を大国主に譲っている。これは、農耕を始めたのが特定の部族だけで、外辺部族は個別に共同体を営む狩猟民であったことを示す。そして、これらをやがて統一するのが農耕民族であったというわけである。
 兄神たちは、大国主を従僕として扱うが、大人しい農耕部族であればそれも仕方がない。やがて時が進めば、今度は迫害に変わってくるのであるが、それは大国主の力が増大したからと言えよう。
 兎は地質の象徴である。当初、土地(兎)は火山など(鰐)によって痛められていた。そこに海水の侵入等があってそれが去った後には岩塩が吹出したりしていた。それが八十神に欺された兎で示されている。そこで、大国主は「蒲の花紛を敷く」に語られる有機的な土質改良方法を施したという過程が示されている。
 「いなば」は「稲場」であり水田地帯のことである。また、「八上姫」は、多くの部族の頭という意味で、多数の部族が支配権を争ったことを示している。そしてその頭の位を得たのは、最終的に大国主であった。



きさ貝姫とうむ貝姫




 

 農業を主体にする民族は同じ土地に定着し、やがて都市をつくり繁栄する。これに対し、狩猟民は定地をもたず、強力な共同体を作り難く、勢力的に劣勢に立たされる。このようにして、農耕民族が文明の主導権を握っていったことが前節には語られていた。この節は、それを受けて農耕民族を襲った幾多の試練について語る。

---原文・・・きさ貝姫とうむ貝姫---
 かれここに八十神怒りて、オホチムヂの神を殺さむとあひ議りて、ハハキの団の手間の山本に至りていはく、「この山に赤猪あり、かれ我どち追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし取らずは、かならず汝を殺さむ」といひて、火もちて猪に似たる大石を焼きて、転し落しき。ここに追ひ下し取る時に、すなはちその石に焼きつかえて死せたまひき。
 ここにその御祖の命突き患へて、天にまゐ上りて、神産山巣日のA叩に請したまふ時に、きさ貝姫とうむ貝姫とを遣りて、作り浩かさしめたまひき。ここにきさ貝姫きさげ集めて、うむ貝姫待ちうけて、母の乳汁と塗りしかば、靂しき男になりて出であるき。
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農耕民族にふりかかった試練

「きさ貝」は「消・去・隠・火」、「うむ貝」は「生む陪火」で、農耕民族や農地の崩壊と再生窒息味している。民族は他民族〈八十神)との抗争で生滅をくり返し、また農地は火山の猛威に破壊され、再び築き直されたわけである。こうして幾度となく民族と土地の世代文替がなされたことを示す。



根の堅州国 




 


 農耕民族への八重垣システム運用法の伝授


 八十神の大国主に対する迫害が繰り返されて、彼の死と再生が繰り返される。御祖の神は、終いには大国主が滅ばされてしまうことを按じて、大国主にスサノヲの許に行くよう勧める。彼はその通りにして行ってみると、スサノヲの娘・スセリ姫が応待し、スサノヲに報告する。スサノヲは彼を蛇の部屋やムカデの部屋に入れて彼を試練する。彼を慕うスセリ姫は試練を難なく済ますことができるように、蛇のひれやムカデのひれを授ける。彼は、蛇などが害しようとすればそれを振って追い払い、無事難関をパスする。
 その後もスサノヲは彼を焼き撃ちにかけたり、頭に巣喰うムカデを取らせようとした。だが、ネズミが安全なほら穴を教えたので焼き打ちを免れ、スセリ姫の策でムカデ取りを赤土の色でごまかしてすっかりスサノヲを信用させることに成功した。寝入ったすきに、大国主はスサノヲの髪を部屋の柱や巨石にゆわえつけ、大神の所持する大刀弓矢などを奪って、スセリ姫と共に逃げていく。気がついたスサノヲは黄泉津比良坂(根の堅州国と現世の接点)まで追いかけるが、はるか遠くをすでに大国主は走っている。そこでかつてイザナギ、イザナミがやったように事戸を大声で大国主に言い渡す。その内容は、「大刀や弓矢で八十神を撃退し、大国主の神(国土の支配者)としてスセリ姫を正妻にし、自分にかわって宮殿を建てて国土経営をおこなうがいい」というものであった。(時代の接点を境にした理念の世代交替を示しているわけだが、ホピ族がマサウウから新しい土地の管理権を受け継いだ話とよく似ている)
 こうして、大国主は八十神を打ち払って国土経営を始める。先の八上姫は正妻スセリ姫に遠慮して、生んだ子を木の俣にはさんで帰ってしまった。この子を御井の神という。以上ここまでがこの物語のあら筋である。
 この章は八重垣による治山効果が発揮されるようになってから、スサノヲから大国主へと国土の管理権と八重垣システムの効果的運用法の伝授がなされたことを示すだろう。ここでスセリビメとは火勢が収束する意味をもち、出来上った八重垣の一通りの効果が確かめられた頃あいを示していよう。大国主とは、地上の管理者としての権利を得た古代人であり、ギリシャ神話ではクロノスに相当する伝説上の農耕民族である。彼に授けられた運用法とは、「蛇のヒレ」、「ムカデのヒレ」で表現されるもので、「蛇」は既出の火山のこと、「ムカデ」とは火山の断面図のマグマの有様の形容であり、どちらも火山活動のことである。
 この中で「ヒレ」とはひらひらする布のことであるが、まるで溶岩をも凍らせる妖怪の芭蕉扇のような働きではないか。おそらく既述した八重垣変換の極め技、エネルギーの発光現象のことではないか。これが盛んになることは、それだけ八重垣のエネルギー変換が能率良く進んでいることを示し、火山の動きも抑えられていることになる。また、マグマをみたてた赤土を用いる呪術的方法も大国主には伝えられたようである。後世の埴輪は赤土に霊力が宿るとして盛んに製作されている。さらに、スサノヲはいくつかの試練を与え、火山活動そのものに古代人が馴染むようにしむけ、引継ぎを果たすという筋書きとなっている。

 さて、根の堅州国とは一体どこであろう。黄泉比良坂が出てくるので、黄泉の国と同じという説がある。古代人は確かに両者とも地底にあると考えていた。だがその原型は明らかに異なる。黄泉の国は死者のなおかつ生存する次元的に地下の世界であり、根の堅州国は神の隠れ住む世界である。つまり、根の堅州国こそ、真に地下の世界であり、「ネズミ(根住み)」すなわち地下に住む者が、窮地の大国主を洞窟に導いたことにも表わされているように、地底文明のことであると推測される。スサノヲの住居が、頭にムカデが巣喰うマグマの間にあることなども示されていることも、その理由だ。

マヤ族が一瞬に消えた世界、ラマ教の僧院から通じるという世界、それらは同じ場所ではあるまいか。そこには人類の成りゆきを温情的に見守る聖者の住むシヤンバラ伝説もある。(ホピの主神マサウウは今なお地底に住むとされ、ホピも地上に現れる以前は(前の時代の災禍から避難して)地下に住んでいたとされている。スサノヲと大国主の神話は、ホピの起源神話と酷似していることもある。ネズミが関わる大国主がスサノヲから受けた試練は、鳴り鏑の矢を持参せよというものだった。彼は野にある矢を取りにいったときに、スサノオの野焼きの計略に遭う。逃げ場を失ったときに、地下に住む者が「内はほらほら、外はすぶすぶ(入り口は狭いが中は広い)」と告げて誘い、火が収まった後に矢を取ってスサノヲのもとに持ち帰ったというわけだが、無用の矢羽はネズミの食するところとなったと、落ちさえ付けられているのが古事記。ホピやアメリカインディアンの祭祀に矢羽が用いられるのと関係があるのかも知れないと思ったりする)
また、御井の神とは、「三井」、「御井」といった地名の元になっている神である。それは川の二つの本流の合流点に栄えた古代都市国家を示すものと考えられる。そこは農耕の中心地であり、全部族の頭(八上姫)の産んだものとして適わしい。



大国主の神、大年の神の系譜




 

農耕文化全盛時代の様相

 この物語については、原文および対訳を省く。「大国主の神の系譜」の後に「少名毘古那の神」、「御諸の山の神」の物語が続き、その後に「大年の神の系譜」が語られるのであるが、この両系譜は農耕文化全盛時代の風俗、技術、栽培作物(あるいは政治)などを示すものであるため一括してとりあげ、系譜で区分して諸神の解釈を施すことにする。

(大国主の命の系譜)

タギリビメ            田切り      耕地の細分
アヂスキタカヒコネ(賀茂)  他地鋤き高ひ捏ね 開拓、開墾
シタテルヒメ           仕立る      耕作の準備
ヵムヤタテヒメ         神屋建て     穀倉、祭社の建設
コトシロヌシ          事知ろ主     祭政宮
トリトリ、トリナルミ      取成る実     収穫
ヒナテリヌカタビチヲイコチニ 額田       水田
クニオシトミ          国推富      肥沃な土地の推進拡大
アシナダカ           葦菜高      潮沼
八河江姫                    多くの河川
ツラミカのタケサハヤヂヌミ  達水       水路
ミカヌシヒコ          水主       水源池
ヒナラシヒメ          干平らし     平担地の造成
タヒリキシマミ         平りき島生み   平担地の造成
ヒヒラギのソノハナマヅミ   園花間摘み    園芸栽培(祭祀用草木の)
イクタマサキタマ       活玉折き玉    継ぎ木、株分け
ミロナミ            水・転・浪    送水の流れ
シキヤマヌシ、アオヌマヌオシ          山間部の潅漑池の推進
ヌノオシトミトリナルミ               山野に渡る収穫
ワカヒルメ                     昼の恩恵
ヒバラオホシナドミ      日原大品富   多品種の作物地帯
トホツマチネ                   長い年月
トホツヤマザキタラシ              長い年月

(大年の神の系譜)

カムイクスビ        神生霊す日    生命に関する霊妙な科学
オホクニミタマ                  大地の精神
韓(カラ)           隠・周      宇宙
ソホリ、シラヒ、ヒジリ    統・火・転    知恵の統治(政府)
オホカグヤマトミ      大輝山富     輝かしい山の豊かさ
ミトシ             満年       充分な年月
アメシルカルミヅ      天知る軽水    雲
オキツヒコ         奥つ火      精神的充足 精神文明
オホヘヒメ         大辺火(辺つ火) 物質的充足、かまど(物質文明)
オホヤマクヒ        大山杭      山林、神体山
ニハツヒ                    自然の光
ハヤマト                    早い繁茂
オホツチ                    大地 土地の神霊
ツチノミオヤ                  土地の神霊
オホゲツヒメ                  豊かな農業生産
ワカヤマクヒ                  成育良い樹木
ワカサナメ                   生育の良い野菜
ミヅマキ                    散水
ナツノタカツヒ                 夏の高い陽光
ナツノメ                    夏の作物
アキビメ                    秋の作物
ククトシ           潜年      長い年月
ククキワカムロツナネ   若室連     連なる民家や穀物倉庫の並び




少名毘古那の神




 

地球外知性の支援

 大国主の時代に地球外知性が訪れ国造りの援助をして去っていったことを語る。

―――――原文 少名毘古那の神―――――
かれ大国主の神、出雲の御大の御前にいます時に、波の穂より天の輝身の船に乗りて、ヒムシの皮を内はぎにはぎて衣服にして、寄り来る神あり。ここにその名を間はせども答へず、また所従の神たちに問はせども、みな知らずとまをしき。ここにタニグク白してまをさく、「こはクエビコぞかならず知りたらむ」と白ししかば、すなはちクエビコを召して問ひたまふ時に答へて白さく、「ここは神産巣日の神の御子スクナビコナの神なり」と白しき。
 かれここに神産巣日御祖の命に白し上げしかば、「こはまことに我が子なり。子の中に、我が手俣より漏きし子なり。かれ汝アシハラシコヲの命と兄弟となりて、その国作り堅めよ」とのりたまひき。かれそれより、オホチムヂとスクナビコナと二柱の神相並びて、この国作り堅めたまひき。然ありて後には、そのスクナビコナの神は、常世の国に渡りましき。かれそのスクナビコナの神を顕し白しし、いはゆるクエビコは、今には山田のソホドといふものなり。この神は、足は歩かねども、天の下の事をことごとに知れる神なり。
――――――――――――――

農耕文化時代の宇宙人との連携による国づくり

 スサノヲより国造りの手ほどきを受けてから後も、他系世界から協力の手がさしのべられた。
 スクナビコナは、天のカガミ船すなわち光輝やく船でやってきたということと、蛾の皮を思わせる衣服を着ており、背丈が小さかったという姿からスサノヲとはまた違うタイプの宇宙人であったと考えられる。名を問うて答えられなかったのは言語の違いによるのだろう。そこでタニグク(谷潜)という峡谷に住む知識者に問うたところ、クエビコ(朽壊日子)なら知っているという。これはやはり老境の賢者であろう。恐らく古い過去の知識を扱い、長い歴史の変転を知っていた者と思われる。彼は友好を示して来た宇宙人と農耕民族の橋渡しをしたに違いない。
 ここでいう「神産巣日」は地上からみると隠れた世界である宇宙文明を示し、スクナビコナはその一組織であることを物語っている。そしてしばらく協同作業をして、役割が終ると、彼は再び宇宙(常世の国)に帰っていったというわけである。
 この結果、前述の「大年の神の系譜」にあるように、霊妙な総合的科学のもとに堅固な叡智の統治体制が確立したわけであろう。



御諸の山の神




 

地球外知性の支援

この節では、少那毘古の去った後、また別の地球外知性が訪れ、八重垣システムの効果的利用法を再教育し、地上民族だけで独立して国土経営ができるように図らったことを物語るようである。

―――――原文 御諸の山の神―――――
 ここに大国主の神愁へて告りたまはく、「吾ひとりして、いかにかもよくこの国をえ作らむ。いづれの神とともに、吾はよくこの国を作らむ」とのりたまひき。この時に海をてらして寄り来る神あり。その神ののりたまはく、「我が前をよく治めば、吾よくともどもに作り成さむ。もし然あらずは、国成り難けむ」とのりたまひき。ここに大国主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾をば倭の青垣の東の山の上に斎きまつれ」とのりたまひき。こは御諸の山の上にます神なり。
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「祭り事」の真義を教えた宇宙人

 地球上は厳しい自然環境であるために、知識は容易に風化していくのであろう。再び国土経営に陰りがみえはじめ、宇宙からの援助を待望するようになった時、宇宙から再び使者が来た。それは、かつてスサノヲが築かせた八重垣システムを再認識させるための役割をもった宇宙人であったようである。
 かつての大国主へのシステム運用法の伝授は、ただ火山活動の鎮静に関するものであった。その時は火山の鎮静が当面の課題であったからであるが、すでに安定期を迎え、多くの耕地が得られている時となっては、第二の運用法というべきものの方が望まれたわけである。

 既に述べたように、不可見な八重垣エネルギーはUFOのエネルギー補給に伺いられるばかりか、自然界の多くの生命が利用している。その中でも最大のものは人類であり、彼等のもつ意思力によって有効な用いられ方をしなくてはならない。このエネルギーは意思力に感応して容易に異体的力をもつに至る。この宇宙人はそのことを教えるために、自ら御諸の山に鎮座し、システムの動作が祈り(祭ること)によって補完されることを示したのである。
 人々が御諸の山に託して鎮護国家や豊穣を祈れば、エネルギーはその具体化を目指して働いていくという訳である。御諸の山は、奈良の三輪山とされているが、既に述べたように三輪山という特定した山ではない。それは津々浦々にある秀麗なマウンド(神体山〉のことである。
 この時代は、次から次と宇宙から具体的な援助がもたらされ、良い知識が導入された。それも当時の古代人にとって適わしい農耕を主体にした素朴な知的介入であった。このような形で安定期を迎えた大国王の時代は人類の黄金時代と称されても不足は無いだろう。スサノヲによるマウンド造りが今から一万二千年前、引継いだ大国主の時代が一万二千年前~四千年前と考えられる。

古事記に示される神の恩寵・・・地球環境コントロールシステム

 地球上に設置されている生命維持、環境制御のための機構はかなり多彩に登場した。それらははとんどが時代の入れ替え期に起きる地球上の大事変に対処するために用意されていると言っていい。
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 後段の「豊玉姫」物語でも念を押すように語られていることであるが、人類文明史は地球という一つの実験炉の中でおこなわれる試し火の過程であるという考え方が明らかになる。
 ひとつの実験が成功する失敗するというのは我々のレベルの分別智では何も言えないことである。しかし、恐らくは一つの実験が終れば次の実験のために様々な環境条件が復元されるのであるということは言える。
 実験の終了と共に、種の保存と新時代の閉幕のためにUFOが飛来し、惰性で殺載を続ける地上の軍隊を撃退するということは理にかなっている。
また、地上の汚物の浄化のために荒療治であるが、水天体を衝突させる如きは宇宙の知性の超科学力からすれば難しいことではなかったであろう。このときもたらされる泥土により、毒物は洗浄され、全ての前時代の遺物は泥の下に埋め尽くされる。それに併いそれまで援徐に動いていた海洋浄化ダクトがフル回転すれば、短期のうちに無機的な下地は回復される。しばらくの凍結期間の後、地球を宇宙機と化すシステムを稼動させ、新たな理念を賦活し、地磁場を蘇らせ有機的な下地の回復をはかれば、新年を迎える準備が整うというものである。
 すると今度は、かの天体の力学的影響で歪む地殻が火山活動を活発化させ生命の発展を脅かす。これを逆用して生命の賦活に効用すべく、宇宙の知性は地上に呪術的なメガリスやマウンドの超科学システム「出雲八重垣」を築けば、地殻のエネルギーは生命活生エネルギーへと変換され、地上の生命ばかりかUFOの動力源としても幅広く活用されるところとなる。
地球はかくて生命が繁茂し、宇宙を旅する船人のオアシスとして機能すると共に、宇宙文明の主要根拠地となるという具合である。

 また、この八重垣エネルギーは理念界の新陳代謝を高める働きもする。このエネルギーは正しい用い方さえすれば、高次元の高みにまでの昇華力を持つ地中の蛇クンダリーニであるからだ。
また「八俣の大蛇」とは必ずしも火山活動や火山帯を示すものだけとは限らない。ちょうど人間が肉体部分と精神(霊)部分の複合体であるように、どのようなものにも精神がある。一説によると、人間をはじめ生物の出す破壊的想念が理念界の低所に「業」として蓄積し、それが地下に沈み火山エネルギーに転化しているという。そればかりか、人々の思考上に投影して破壊的、悪魔的な衝動にかりたてるという。
古来より卵をとりまく蛇のモチーフがあり、暗に世界を示すとされていた。蛇はどの神話でも良くないことをしでかすものに譬えられるが、これが地球をとりまくような格好で存在する業想念帯で、本来の理念が天降ってきてもそれを破壊的な方向に偏極し、生命系の潜在意識を通して破壊的衝動や錯乱、さらには戦争を起こさせ、実験炉のなりゆきを低質なものにしているのだ。とすれば実に問題があるだろう。
蛇は汎ゆるまとまりをみせようとする働きに逆らって、それを熱エントロピーに変化し消耗する摂理のようなものかも知れない。それは業想念帯という精神部分と、火山活動、戦争、破壊といった具体的部分の複合で成っている。そしてそれは、逆の良い方面の環理である生命的組織化の摂理とやはり重合する格好で世界の歴史を形成してきているわけである。
宇宙の法則から熱力学第二法則を外せというのが不可能なように、業的事象を取り去ることは不可能であろう。それでもこの働きを抑制して、バランスよく歴史が運行していくように地球には優れた設備が置かれているという考えができるだろう。
いま一説によると人類が光明化想念をもってすれば、宇宙にはそれを増幅して業想念を対消滅すべく作動する宇宙の知性の築いたシステムがあるという。二章三・(十六)節でも述べたように「威儀を正した祈り」の想念に感受して、具体化する。地球をとりまく物心両界のエネルギー循環系を考え、図3・9に示すことにする。その中で宇宙の知性がもたらした環境浄化システムがどのような働きをしているかを見てもらいたい。


 こうしてみると、地球は一個の生命体である。そこには可見と不可見の領域に渡る循環系があり、さながら人体の仕組みを見る思いがする。その中で業的事象は一種の疲労物質であり、この除去のために肝腎に相当する環境浄化システムが日夜活躍しているというわけである。
このような対策が予じめ施してあるからこそ、今の時代の無謀な公害や汚染にも自然は未だ破壊し尽くされず残っていると言えるだろう。自然の浄化作用と我々が思っているものの多くは、実は地上を一つの実験系たらしめている知性の厚情の賜物によるものである。だがそれはどこまでも万全とは言えない。特に次の二つの面で心配されるものがある。
 一つは、人類の横暴に基づく汚染の最大のもの。核戦争にでもなれば、決定的なオーバーワークをもたらすだろう。二つは、国つ神族の反乱とも言うべき、自然の猛威の復活である。火山の爆発は水爆に匹敵するはどの大気汚染をもたらす。これは八重垣システムが有効に働く限り大丈夫であろうが、山野の乱開発は明らかにシステムの破壊を引起し、活力を弱らせていないとは言えない。そればかりでなく、システムの機能が効果的に活用されねば地球生命も文明も早い老化をきたすことになるのは人体と同じである。だがこれも活用すべき人類の考え方の問題で効果的活用には程遠い。結局のところ、本当に心せねばならないのは人類なのであり、多くの人が真知に立ち帰り、知識者が一丸になっての大運動が今日下の急務なのである。
 古代人は、これらの事実を、体験者、観てきた者、地球外知性などから聞いた伝えなどを着実に守って、彼ら自らその意義を理解していた。神道をはじめ、世界の民族の宗教はこぞって祭祀を教儀の中にとり入れ、自然的な浄化作用を賦活することに心がけてきた。祈れば理念界にその種を播くことになる原理を活用していた。鎮護国家、豊穣、世界の安定、よりよき理念の天降らされんこと等、実に様々な祈り方がありえただろう。それらは全て超科学力を駆使する神への従順と信頼により形成された方法であったことは間違いあるまい。
 歴史の表層的流れは、しだいに単なる野望で動く者の手に渡り、価値の転倒が起こったが、過去の貧しくて豊かな人々は、今なお多くの人の中に見受けられる。これは人が本質的に霊であり、かつての記憶を持ち来たしているからと考えられる。このような人々の純粋な結束と新らしい動きこそが陰惨な破局を回避することに繋がると確心されるわけである。


すぐれた知恵の統治がなされた先古代文明を物語る
大年の神の系譜がこの後つづくのだが、
すでに大国主命の系譜と並べて対訳して
いるので省き、その次の段へと飛ぶ。


[天照らす大御紳と大国主の神]



 ここからは宇宙からの介入も侵略的かつ組織的な色彩を帯びてくる。その介入の仕方も非常に巧妙になっているので最も注意を要するところである。原文は長文に及ぶので省き、筋書きの説明を詳細に施していくことにする。



 

天若日子 宇宙からの侵略的介入(懐柔策)

 この節から、突然天神系を主体にした歴史のなりゆきの説明になる。まず、天照らす大御神は実り豊かな農耕文化を築いている地上に最勝の全知識の体系を示す御子マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミを降そうとする。ところが、天の浮橋から地上の有様を眺めると、非常に騒がしかったので、降りるわけにはいかなかった。そこで、タカミムスビの神がアマテラスの意向を何とか実現
しようとして、八百萬の神に思ひ金(コンピューター)をまじえて協議して、地上の風俗を柔らげるためにまずアメノホヒの神を平定のために遣わすことにした。
 アメノオシホミミとは、既に述べたように「全分野の最高の知識の体系」のことであり、古代世界共通の「知恵の木」でシンポライズされる神聖な知識体系のことである。天の浮橋は、理念の存在する超空間であり、単に宇宙から降りてくるというのではない。これは後程、ニニギの命のところで詳述する。ここまでで重要なのは、地上の生活が荒れていたために所期の最高学問の地上世界確立がすぐには実現できず準備期間が必要となったことを示していることである。
 ところが、文明開花の意味をもつアメノホヒ(初火)は大国主の許で帰化してしまった。仕方なく、タカミムスビは再びコンピューターに議って今度ほ天と地の両方の事に精通した宇宙文明の中でも若輩のチーム(アマツタニタマの子アメワカヒコ)にミサイル(アメノハハヤ)などを含む強力な兵器を併わせて送り込むことを決定した。これは恐らくそれまでに地上が啓蒙されて相当な武力を持つに至っていたからであろう。だがこのチームは、大国主の娘シタテルヒメと結婚などをして、地上を自分のものにしようとして、やはり帰化してしまった。ここでシタテルヒメとは、お膳立ての準備段階を示している。
 今度は、アマテラスがどうなっているのかを調べるために、やはりコンピューターに議って、キギシナナキメに注告の言葉をそえて送る。だが地上社会も体制が確立しており、様々な逆調査がなされた結果、宇宙文明の直轄支配の意図を察知し、地上政府はこれをミサイル攻撃した。これは、一大戦争の発端である。キギシナナキメの攻撃されたことを知った宇宙文明(タカギの神)は、アメワカヒコの地上勢力に報復攻撃をして禍根を絶ったのである。

懐柔策は裏切り(帰化)によって失敗

 既に述べたように、インドの叙事詩ラーマヤーナにはラーマのシータ姫奪回の物語で核弾頭ミサイル使用の描写がある。伝説では、この武器は天空の住民から与えられたものとされている。
また、旧約聖書のソドムとゴモラの話はやはり核兵器使用であり、この場合は席敗怠落した都市人民に対し神が怒っておこなわれている。これらいづれも宇宙文明のした行為の正当化がなされたものである。前者は、文明の利器の偉大さに力を入れ、そのような兵器を英雄伝説に合一させている。後者は神への畏敬と神に忠実でない者に対する戒めに力点を置いている。古事記の場合はこの両方の要素に加え、先制攻撃に対する報復(還り矢)も語られているだけに裏の事情に詳しいと言える。いづれにしても宇宙からの支配権をめぐる干渉を語っているに変りなく、同一事件が様々な伝承に変化していると考えられる。
 また、ここでタカミムスピはタカギの神と名を変えて、あらわす実体の内容を刷新している。
ここでは「現象展開の超空間コンピューター」ではなく宇宙文明の組織体制を意味している。これより前「少名毘古那の神」のときに出てきたカミムスビもタカミムスビと陰陽の性格の差こそあれ、同じものを意味している。つまり、スクナビコナもアメワカヒコもその組織から派遣されたユニットなのである。カミムス
ビは保守的、温情的な性質をもちタカミムスビは進歩的、攻撃的な性質をもつ。これはちょうどギリシャ神話のクロノスとゼウスに相当する。これは、主導的方針あるいは思想の変化が宇宙文明にあったことを物語るのだろう。

大義を生かすために小義を犠牲にする

 物語ではこの後、死んだアメワカヒコのために同族の宇宙人達は組織を挙げて喪屋を営み長い間なげき悲しんだが、その葬儀の場に容姿がアメワカヒコに似たアヂシキタカヒコネ(前出のアヂスキタカヒコネとは、「鋤き」と「敷き」の違いのあることに注意。この場合、他・地・征伐を意味する)がやって来たので、家族はまだ彼が生きているものと錯覚する。これにアヂシキタカヒコネは非常に腹を立て、「汚れた死人と一緒にするな」と言って、オホバカリ(大量)という大刀で喪屋を切り伏せてしまった。
 この部分は非常に教訓めいているし、宇宙文明の組織内部の裏話も秘められている。つまり、帰化と征服もしくは懐柔と侵略は根本的に似て非なることを述べようとしたのである。それは地上においても複雑な原因で成りゆきが紛糾しがちになるのは歴史の通例でもある。それは宇宙文明の組織内部でもよく意趣の伝わらなかったことであろうと思われる。これゆえ、「大量」の意味する「より大きな計画」をここで示す必要があったというわけだろう。つまり、宇宙文明の方針に変化は特に無く、時に従い様々な方便がありえていたというわけである。
 ここまで世の歴史を深く取材できた者とは、かの海洋民族であったと言えるのであろうか。とにかく、連綿とした時代において常に体制に随伴しながら知識の収集に努めてきた一つの役割があったと言えよう。

(この古事記の解釈の当時、私はまだ天神系理念を好ましいものと捉えていた。それは宇宙文明の移殖計画であり、地球にとって進化すべき階梯を上ることと考えたからだ。2007年(1990年でも)の時点なら、今こそ宇宙文明による強制的な国譲りがなされても良いと思われるのに、その気配もなく、むしろ地球自体が滅亡に瀕していることを見ると、いったい天神系とは何なのかを深く
考えさせてくれることとなった。その結果、得られた最も分かり易い時代が、現代史によって最良のものになると分かったことだった。いや、神話はものごとの定型パターンであって、どんな時間のスパンであっても適用できるのだ。だが、現在までの歴史をあてはめたとき、天神系理念とは、爆発的な文明開化を進行させる高度物質文明と、その利器の数々のこととなり、その理念が現代に降臨して、賑々しい諸相充足完備の世相を現出していると捉えられたのである。
別の角度からの発見もあり、この時代の歴史に神話を当てはめて推敲を重ねた結果として、「古代日本にカバラが来ていた」(著作品)および「古代日本謎の中東思想渡来考」(ホームページ)をアウトプットしたしだいである。

さらに推敲するなら、スサノヲ/スクナビコナ/御諸の山の神の系統が宇宙人なら、天神系の神々も宇宙人ではあるが、別系統ではないかと思ったりする。それほどに同じ系統とするには思想的な違いがあるからだ。良い宇宙人、悪い宇宙人という分類をする人もいるようだが、地球人類に対して純粋に好意的な側と、非好意的かつ策謀的な側という分け方を取りたい。後者は我々からすれば、警戒すべきものとしておかねばならないのに、どうも無頓着か、もしくは恐怖のあまりだろうか信仰までしてしまっている感がある。古代人はそれらすべてを神々として、その性質ともども神話に織り込んで、処すべき考え方の基本に置いていたのにである。

天神系の神々の影響は、現代文明を見れば一目瞭然だ。だが、それは人類をあるシナリオ(人の啓発のためかも知れないが、人類だけでなく地球の滅亡さえも容認する)に誘導している。かつて黎明のオオクニヌシの時代にあった宇宙的叡智はいっさい発揮されていない現代社会。宇宙人が双方の時点に関わるとするなら、その差はあきらかであろう。これを宇宙の一貫した計画の中の方針転換などという奇麗事にすることはとてもできるものではない。宇宙人と言わず、神としても良い。とならば、邪神と正神の少なくとも二つの勢力があると思ったほうが良い。そして実際、私は、縁に導かれるようにして、邪神大掃討作戦を誘起する残された人生を送ってきた。その詳細は世界救済の新神話に記している。多く想像による肉付けだが、啓発にかかる骨子の出来事は事実である)


国譲り




古事記がこの段以降ほど、古い事績の歴史と、降る事(預言)の歴史の両義性を表した段はない。

古い事績の記録と言う観点からすると、地球文明が宇宙からの干渉を受けて、その軍門に下り、以後宇宙文明のために使役される地球文明、それとともに革新的な宇宙的文物の移植流入による利益、こうしたことのあらましが書かれていると見ることができる。
 どう見ても、天孫降臨の叙述は、宇宙からの地球侵略と平定の歴史であるように解釈しなくてはおかしいからである。

また、降る事(預言)の歴史と見る方法を採って愕然としたのは、日本の現代史を物語るかのような内容になっていたからである。それは後述する。

古い事績・・・宇宙からの侵略を受けた時代のこと

過去の時代。それがどれほど前かは判然としない。だが、シュメールの粘土板には、人類とアヌンナキの神々の関係とその歴史過程が書かれていた。
それによると、人類は当初、地球在来の霊長類と、アヌンナキの遺伝子を掛け合わせて創造されたようである。その目的は、アヌンナキ人の住む星ニビルの大気を維持するために、金を豊富に必要としたことから、その採掘と蒐集のために現地に手下となる奴隷が必要だったというのである。

 このために人類をこの地球に下ろしたというのであるが、国譲り神話は神々との戦争を物語るものであるから、人類を下ろす際、地球在来の神々との間で戦いがあったと見るべきだろう。
戦争に敗れた側の国津神は、天津神に歯向かえない状態にされたことになろう。そして、アヌンナキの要望を容れた文明の移植がなされたというわけだ。
アヌンナキとのかかわりと、秘された歴史については、別の資料で詳述することとした。⇒ 新神話

 

降る事績・・・日本国敗戦を予言した段

原文対訳は省く。

「国譲り」の段では、国つ神の領土に対する天つ神の征服計画とその実施方法について語られる。まず、神々の作戦会議の中で、イツノヲハバリ(威力ある凍結の意味)に示される糧道、補給路の凍結案が出される。だが、それよりも効果的として、タケミカヅチノヲに天の鳥船を副えて行かせることにした。 そこでタケミカヅチノヲは出雲国のイナサの浜辺で、十ツカの剣を剣先を上にして立てて、その切っ先にあぐらをかいて大国主命を威嚇し、国譲りを迫ったという。だが、この表現すらも異様な光景を想ってみたとき、何か連想するものが必ずあるはずだ。

それは、絶対に「キノコ雲の形状を表わすものである!」と断言できる。建(猛)・雷の示す、強烈な光をもよおす雷の意味合いと、天の鳥船(別名、鳥の石楠船〓空飛ぶ石楠のように堅い船〓飛行機)があいまって、まさに核爆発の光景をイメージさせるに足りている。

そのような歴史を、豊芦原の水穂の国である日本は、どこかで経験しなかっただろうか。半世紀前のこと、B29によって運ばれ、投下された原子爆弾は、十ツカの剣のごとく、上空はるかにキノコ雲を巻き上げ、その被害の甚大さによって日本は終戦を決意したのではなかったか。ならば、タケミカヅチノヲの前にいる大国主命とは皮肉にも天つ神の国を自負した日本ではなかったか。

抵抗に及んだタケミナカタ(猛・水・方)の話も、不沈艦隊を誇った海軍の顛末を語るようであるし、イツノヲハバリ(凍結)による塞き上げも、経済封鎖と石油を断つABCD包囲網や南西諸島の米軍蛙飛び作戦として具体化したとみられる。

国譲りをした? 客観的に見て、国については何も譲っていないではないかと言われる向きもあろう。確かにそう見える。だが、本当にそうなのだろうか。実は、このことさえも預言されているのである。

大国主命は国土を譲渡しはするが、天つ神と同等の宮の甍を賜り、大国主命の側に立つ者(八重事代主)による代理統治を認めるなら、数多ある神も逆らわず、国は丸く治まるだろうと安堵の条件を提示し、その代わりに今後、配下の料理役の神(水戸の神の孫の櫛八玉神)をして、海の珍味を机も撓むほど盛り沢山にして、その煮炊きの煙を天高く上げて料理して、天つ神のために立派な御馳走を献上しましょうと約束させているのである。

 この場合、天つ神をアメリカを筆頭とする世界列強と捉えれば、確かに現在の日本の置かれている状況を予見していないだろうか。 
日本は本来なら戦後、ドイツ同様の二国分裂状態もしくは占領植民地状態で推移していても不思議ではないのに、勝者並みに居所が約束されたばかりか、欧米の先進工業の移植のおかげで、今や世界列強をしのぐほどの高度経済成長を遂げた。

その代わり、日本は世界の発展に寄与すべく世界の工場となり、公害や環境破壊、世界の悪評を率先して身に引き受け、優秀な工業製品を大量に世に送り出し、広く国民から収益を吸い上げて、莫大な国際貢献をも行なうに至ったのではなかったか。

八重事代主とは、幾重にも国事、民事を監理し統べる指導者という意味で、ここでは政官界のことに違いなく、水戸の神の孫という櫛八玉神は、櫛のように多分岐した先に付いた沢山の玉の意であるが、ここではトリー構造にまとめられる産業界、経済界を示していよう。また、二章で述べたように、水戸とは港であり、産業界が貿易によって発展することまで語られているとみてよい。

古事記の予見は、大味ではあるが、正確かつ包み隠すことのないストレートなものである。すると、ここでまた陰謀幻想を催してしまいそうになる。どうして対米外交が、言いなり追随になってしまうのか、不思議に思ったものだが、国譲りが暗黙のうちに出来上がっているからなのであろう。

ふりかえれば、日本政府は巧妙に国民を納得させ、この計画に従わせているようにみうけられる。豊かさという幻想が誘った経済成長、誘導された高地価、高物価、極端な内外価格差、その釣り上がった土壌から否応なく吸い上げる税収、その一方で、効果のチェック機能のない大盤振舞の無償援助や借款、知恵のない高借金国への貸付と被る為替差損等々の垂れ流し的状況、自然の成り行きとするには出来過ぎの感があり、貢ぎ物を献ずる政策の一環と捉えたほうが理解し易い。

日本の国家安全保障機能の欠如は、戦後占領軍のレール引きによることは紛れもない。議会政治自体、国民不在化制度だった印象を与えずにおかないし、外交下手、金権腐敗、次元の低い長期政治不在などの事態が、国民に政治への諦めを持たせるための演出だったかという観測を惹起しないわけにはいかない。

歴史上に、国譲りに伴う取引の経緯が出てこないなら、何らかの密約が存在するのか? いや、何の証拠もないのだ。そしてまた、預言とは歴史の止むを得ぬ流れを前以て語るものであるから、故意性がなくとも、そのように展開してしまうものなのだ。政治家も個々としては一生懸命だろうが、数が多ければ身動きとれぬことばかりに違いなく、結局衆愚政治となって、成り行きはつまるところ預言どおりに落ち着いてしまうというわけなのだろう。


さらに大きな未来展望の可能性

降る事の事績(預言)も、時代の大きなスパンに関わることになれば、もっとスケールの大きな展開となって現れるかもしれない。
古事記では、国津神の葦原の中つ国は「いたく騒がしい」状態であったから、上位にある神々はこれを平定しなくてはならないとしている。
これを現代の、第三次世界大戦勃発前夜として捉えたとき、地球外からの懸念と救済の動きとして現出してくる可能性がある。
目下、世界各地に出没している様々な形のUFOは、その現れと見ることができる。それに伴い、現代の末法思想とも言える、最後の審判やアセンションの話は枚挙にいとまがない。人々が理想化し願望すれば、その通りになることもあるだろう。

それはまさに天津神の降臨として認識されるのではあるまいか。ガイドは先んじて出されるものであるからだ。
現存する秘密結社がその秘密を先んじて知っているのなら、現在いくらも出てきているハリウッド映画の未来ものに表現されているだろう。超機械化文明、超テクノ文明、完全管理される人類社会といったテーマが映画化されていて、その内容は怖いほどである。
人類の本当の幸せから、乖離しないでほしいと言ったところで、文化の異なる宇宙人のアイデアで先の未来は規定されるだろうから、人類はそれに従うしかなくなるだろう。
また、映画は必ずと言っていいほど、そのような未来世界は人間にはそぐわないものだから、反抗せよと言っているように見受けられる。それをどう解釈するか。とはいっても、反抗してもリスキーなだけかもしれない。
劣勢にいつも置かれた地球とそこに住む有情に、素敵な未来がやってくるというのだろうか。
またもアヌンナキに侵略された歴史をぶり返すようなことはやめてもらいたいと思うのは私だけかもしれない。

私は個人的に、この宇宙の外からの(三千世界からの)介入と解放を新神話として願いを籠めて書いている。それほど私にとっては、この宇宙は失望に値する。
それもまた天孫降臨の類義事象になるはずだ。新神話では、今目下が「国譲り」要請の段階にある。それが叶えば天地有情はみんな解放される。



天孫降臨




 

賑わしの諸物の登場してくる時代

「国譲り」後の栄光の時代にはどのような事物が登場してきたものか、古事記には、どう預言されていたのであろう。続く「天降」の段で天降してくる神名、神器名を表に掲げるので、御覧頂きたい。




オモヒガネは山田久延彦氏の所説どおり、コンピューター(ハードウェア)のこと。それを
筆頭に、日本のとりわけ強い情報処理分野を中心に、建設、動力関係の事物に触れるという、現代の主要技術力を代表する事柄の記述だったのである。特に伊勢の内宮、外宮は寓意により、現代の情報処理センターのオーソドックスな形態を預言していた。

つまり、古事記は紛れもなく現代日本を見透した神の計画書であったのだ。むろんこれらの事の起こる時代は、吉凶正反混淆かつ素晴らしく魅惑的な(完成状態「7」に至る)究極の成就の時代として、古事記全体の筋書きの中では、最高の賛辞を以て取り上げられているのである。 


猿女の君




 

社会主義体制の崩壊

「天降」の段で、天降しようとした天つ神たちの行く手を阻んだ天と地の中間神がいた。サルタヒコ神である。彼は妨害しようとして出てきたのだったが、天つ神アメノウズメの器量に圧倒されて、道案内に来たのだと言い負けてしまう。こうして順調に天降が果たされた後、この段の話となる。

サルタは「去る・田」で、縄張りした土地(田)をなくす者という意味で、土地資源の所有を認めない社会共産主義国家、ソビエトであったと解される。日本は戦後、最初のうちにこの干渉を免れた。

そしてこの段では、サルタヒコは道案内のお役目終了ということで、ヒラブ貝(平ぶ〓選定)に手を食い合わされて海で溺れる形で死に、ウズメに葬送されることとなる。

ウズメは、ここでは天つ神の体制(資本主義、帝国主義)の強力な推進エネルギーの象徴であるが、これに圧倒される形で、ソ連はじめ社会主義体制は崩壊してしまった。


木の花の咲くや姫




 

華美な高度物質文明は、結局短命に終わる

この段のあらすじはこうだ。

ニニギの命は、「木の花の咲くや姫」に出会い、求婚
する。だが、彼女には姉の「石長姫(イワナガヒメ)」があり、一存では決められないので、父「大山津見」に話してくれと言う。そこでそのようにすると、父神は大いに喜んで「石長姫」も添えて差し出した。ところが、ニニギの命は、醜さのゆえに姉神の方だけを返してしまった。そこで痛く恥じた父神は、姉神を添えて出したわけと共に、呪詛を込めてこのように言った。
すなわち、天神系理念の命は、妹の「木の花の咲くや姫」により華美で鮮やかな繁栄が築かれ、姉の「石長姫」により盤石の寿命の長いものになるはずであったのに、これでは天神の御子の御代は、木の花が開花し散るごとき短命なものに終わるだろう、と。

つまり、華美だけを取り、堅実を取らぬ発展は、長続きしないということを掛けて示しているのである。

さて、娶られた「木の花の咲くや姫」は、たった一晩で子供を妊み産気づいてしまった。それをニニギは、短時間に妊んだ子とは不義の子であり、天神の子ではないのではないかとの疑いを持ち、火をかけて燃焼下で産ませて真贋を占おうとする。

これも非常に暗示的な話であり、短時間に作ってしまえる子供とは、急発展する現代文明を示していると言える。

この時生まれた神々、ホデリ(火の勢い良い燃焼)、ホスセリ(火勢の衰え)、ホオリ(鎮火)の三神に掛けて何を表そうとしているか、現在の日本の状態を考えればおよそ見当がつかないだろうか。「火」は現文明の象徴であり、高度経済成長、科学技術の急速な進歩、華美な物質文化の謳歌、これらが勢いをなくし、ついに逼塞する時が来ると解釈されるのだ。

だから、今の高度物質文明社会に、あまり惚れ込まないことをお薦めしたい。鳥瞰すれば、今の人類の営みは、自然界のルールに則らない、自分たちだけでしているゲームの世界にすぎないと言える。

何かに突き動かされて、お金稼ぎに狂奔するあなた。昼も夜も満足に休めないあなた。わずかな所有のゆえに死ぬまで働き続けねばならぬあなた、黙示録も獣によって印を受けた偶像崇拝者たちは火と硫黄の燃える池で責め苛まれ、昼も夜も休みがないと言っている。
[ 獣=現世界体制、印=構成員としての登録、偶像=金銀銅石木でできた崇拝物=お金その他の所有物、燃える池=(石油)燃焼を主体とした(車)社会 ]

かといって、未踏の島に住むことも、戸籍(印)をなくすことも(獣が売り買いできなくさせるので)できないあなた、心だけは物事に対して淡泊でいたいものだ。いずれゲームオーバーになると、これまた聖書や古事記には言明されているからである。だからといって、ゲームを心底楽しんでいる方には、難多くとも個々の進化の道であろうから、あえて何も言うことはない。

 


海幸と山幸




 

海洋型経済大国の崩壊

 ここでは、文明逼塞の具体的な原因が示されているようである。
話はお馴染み、釣り針という負債を負わされた山幸(ホオリ)が、水を司る神(シホツチ)の援助で、海幸(ホデリ)を懲らしめるという話である。タイミングの良い司水神の水位の上げ下げで、海幸を貧しくしていき、逆らえば潮満つの玉で溺れさせ、憂えて謝れば潮干るの玉でかろうじて生かしておくという、いわば故意の人為的象徴的水害による海洋部族の没落が語られているとみられる。

これは、今にいう過去の負債(対日貿易赤字など)を逆ネタに、株や通貨の相場(水位)操作、経済制裁が、指向性ある強大な資本力や、水を得た政治力によってなされ、海洋国日本が打撃を受けることを物語っていると解釈される。このことは現在進行中のことであり、一時「ホオリ」の状態にあったアメリカが逆転して力を取り戻しつつある。(記載は1994年以前の情報による。今では、激しい為替の変化による莫大な損失の後、ヘッジファンドを初めとする巨大マネーが指向性を強めて我が国を標的にしている)

彼らは既に世界の金融を手中にし、巨大な資本を自由に操り得るという。穀物と石油の生産流通機構を握り、食料とエネルギーをほぼ支配するらしい。また、強大な政治力、軍事力のアメリカを背景に、世界各国に異議を唱えさせない世界戦略を発動するという。結局、孤立を深めるのは政治、経済などの分野で彼らのスムーズな進出を拒む北朝鮮や日本のような頑なな国ばかりとなる。

いずれ情報も支配され、監理された情報が世界に提供されるようになれば、神話ではあたかも山幸の方が善玉のように語り継がれるが、それと同様、海幸日本はその巧みな情報戦略で衆議一致の悪玉となってしまいかねない。

そして、資金力に物を言わせた為替相場操作、スーパー301条などの経済制裁、米政府高官の発言シグナルなどは、大小こそあれすべて潮満つ潮干るの玉なのだ。このために、海幸は山幸に頭が上がらず、山幸の昼夜の守り人となってしまうというのが預言とすれば、実際の歴史はどのような展開をしていくのだろうか。

だが、もしこの手の「水位」操作が過激になされた場合には、緩徐な古事記の域を超えて、急激な黙示録にいう大いなる都市バビロン崩壊の序曲ともなりかねない。例えば、一日百兆円にも上る為替相場への投機資金にひとたび指向性が与えられたなら、各国の協調介入や高官発言ごときが寄ってたかったとしても、ひとたまりもない。危ない話はごまんとあるが、それを今は世界の良識がまだしも支え
ていることと、まだ時が至っていないからという理由によって免れているのだと思えるのである。

 


豊玉姫の命




 

黄泉の国の事態に酷似

この段は、山幸の妻となった海神の娘、豊玉姫の出産話である。天つ神の子ゆえ海原で産むべきでないとして、渚に出てきて鵜の羽で産屋を作ろうとしたが、作り終えない間に産気づいてしまう。この時、夫神に、お産の時は元の姿になるので絶対に見ないで欲しいと言うのを、山幸は覗き見て、八尋鰐が這っている有様に驚いて逃げ出してしまい、それを痛く恥じた姫は海坂(海道と地上道の境界)を封じて海に帰ってしまう。

前半の話は、イザナギが黄泉の国のイザナミに国造りが未完成(〓産屋が未完成)なので戻るよう要請した経緯にどこか似ている。また、後半は、イザナミの制止にもかかわらず、どろどろの醜態を覗き見てイザナギが逃げ出す話に似ている。
海坂も比良坂(二つの時代の境界)の焼直しのようだ。つまり、二章で述べた「黄泉の国」の段が簡略化されているとみられるわけだ。
 

 
 


鵜葺草葺合へずの命




 

新しい時代は振り出しに戻る


 
前段で生まれたのが鵜葺草葺合へずの命であるが、この神と玉依姫との間に、五瀬の命、稲氷の命、御毛沼の命、若御毛沼の命(神武天皇)が生まれる。このうち、御毛沼の命が常夜の国(宇宙)、稲氷の命が海原、残る二神が陸上で、続く中つ巻に繋がっていくように設定されている。

ここで、陸、海、空に持ち分けての支配構図を示したともとれる形で終わっているわけだが、これもイザナギ神の身禊で生まれた三貴子の支配構図の説明によく似ている。つまり、次の新時代の初期状態を説明した形で、上つ巻は終結しているとみられるのである。

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この最後の二段の話は、ちょうど連続する「黄泉の国」から「身禊」にかけての話に似て、その簡略化(軽減)された筋書きの感がある。つまり、この位置に前話を繰り返し置きたかったのではないかと思われるふしがあり、もしそうならば(過去よりさほどひどくない)最終戦争があり、元の黙阿弥になった世界が、我々の歴史の先に預言されていることになろうか。つまり、大過去がそうであった
ように、歴史は同じテーマを抱えて繰り返すというのが、古事記預言のあらましなのである。
 

 


 古事記神話解釈・完 

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初稿1978.5 

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