Kさんがまたお題を持ってこられました

イエスの再臨としてのターミネーター役にふさわしいような日本のシュワことKさんが、数十年の帳を破ってまたも刺激的な話を持ってこられました。
以前には、昔から順に言って、ドーリルヨガ、UFO、レイライン、ホツマツタエと、何かと面白い話をしてくれまして、それら全部がいくぶんかずつ噛むことになったのですが、中でもUFOでは武良さんと知り合うことになり、UFO撮影に興ずることになりましたし、
レイラインでは、彼から遺跡やパワースポットを点と線で結ぶことを薦められ、当時、UFOグリッドなんてのが世界を取り巻いていると言った海外説もあって、何だか、遠い旅に出ずとも、地図上の作業だけの気軽さと、地図を見るのが好きだったことから、始めたようなことだったですね。
1980年には、古事記神話の暗号を辿ることで、九州に二等辺直角三角形が描けそうだとわかり、その後、畿内へと推理を延ばしてくると、出てくるは出てくるわ。ざっくざっくと、神聖幾何学図形が、見つかったわけでした。
⇒ https://p.booklog.jp/book/99385/page/2690582/bookmark
1988年にはそれをもとにしたミステリー論文を書いておりました。そしてムーの懸賞論文に当選したようなことでした。
⇒ 古代日本を動かしたカバラ思想の謎
その前後にKさんは、彼の友人のKWさんがホツマを解読せんかと言っとるぞと、なんと分厚いホツマ文字のコピーを持ってきて、ドンと置いて行かれまして、その一枚も読み切れずギブアップ。私は原語から解読する人間ではなく、ある程度のところからでなくてはならないのです。古事記も、武田佑吉訳註の文語から見ていったようにですね。
原語から解読する人は、それを得意とする人でいいではないですか。
だから、私がいずれホツマに興味して見始めたのは、ネット上に口語訳まで載せられるようになった、はるか後のことだったのです。2009年あたりからでしたかね。
そのおかげで、私は原語学者にならずに済みました。原語からやった人は、原話に忠実になり、その語る域から出られないだろうな、と思いました。相当な労力ゆえ、訳したホツマに心酔してそれを絶対視してしまうだろうということです。時間をそれだけに費やしてしまうのです。
歴史とは並び立つものを比較して、その差異から真実を知ろうとしなくてはならないという、研究者としての観点が抜け落ちてしまうんですね。ホツマでは、松本善之助さんや鳥居礼さんや池田満さんがいますが、原話を絶対視して忠実であり、その域を出ません。域を出るだけの時間もスタミナもないわけです。だから、後世の別人の仕事になるわけですね。
私の見立てでは、ホツマも真の歴史書ではないです。歴史は勝者の手によって、都合によって書き換えられます。そのような創作物語文書であると見ています。さらに後世に成った記紀では、日本の国威の象徴でもあることから、なおさらとなります。
さて、Kさんはまた不思議な話題を持ち寄られました。
イエスが諫早に上陸していたという情報です。その湾に面する岩戸山から名古屋の熱田神宮に引ける一直線に大きな意味があるというのです。またレイラインのことが絡んでいそう。そんなわけで、地図を見ていましたら、諫早には神武天皇の足跡もあるようですね。
ははーん。
何だかほのかに、火明りのように見えてくるものがあるように思いました。

異界の探偵冥利に尽きる人生をありがとう

懐古的に、今の時点を思ってみました。
神々のご加護の観点からすると、
昨年11月13日(金)に、私は迂闊にも23Km/sオーバーのスピード違反をしてしまいました。
反則金15000円と2点減点。
前役(41歳)の元旦0時に厄神さんにお参りして以来、そのときまで、車の運転に関し、営業車(タクシー)運転も含め、無事故無違反であったのですが、これが終わったことになりますか。25年の完璧とも言えるご加護でした。
世の中にその日何かあったかと言うと、パリの同時多発テロで、13日の金曜日を印象づける日でしたか。
今年の3月6日には、2009年に当山に移り住んで以来、初めてこけて、膝頭を地面につけてすりむき、痛い思いをしました。
痛いというのは、生きていたんだという実感を得られるチャンスでもあるわけですが、この6年の間、切り株だらけの悪路で何度もつんのめりながらも、上体を維持してくれた神霊たちに感謝申し上げたく思います。
世のステイタスからしますと、昨年のクリスマス前後には、英王室のエリザベス女王とローマカトリックのフランシスコ教皇がそれぞれに、「今回が最後のクリスマスになる」ことを言われたそうです。今年のクリスマスは時期が来ればセレモニーがあるのは当然でしょうが、はてどのような予測がおありだったのか。いちおう、何かの終了のステイタスとして思っておこうと思います。
私におきましても、我が人生をスピリチュアルな側に導入してくれたKさんとの出会い。それは私が25歳頃でしたか。
それから今年2月の40年ぶりの邂逅、再会。このおかしな人生の方向性の流れにおける「阿吽」を形の上で形成してくれたことになりましょうか。
そのKさんは、当初、イエスのような柔和な風貌でした。再会時には、即座に「ターミネーターのシュワちゃんだ」と叫んでおりました。場所は白鳥台のローソンの店内でした。それはキリスト再臨時の厳しさを湛えた矍鑠とした風貌でした。まさに「阿吽」の印象を持ちましたことか。
私の人生の成果は、異界の謎解きに費やされた時間のアウトプット資料を示すしか、他に見るべきものはありません。
およそ人が評価尺度とするおカネの量や知名度、地位名誉といったものには一切関与していません。親戚中では最低人間に見做され、鼻つまみ者として未だにランキングされています。
この人生の中でも不思議なのは、50歳以降今までの時間における謎解きが、加速度的に展開し、満足できたとも言える経験になったことです。
私の本名が、まさに名は体を顕すこと、そのものずばりとなりました。この本名の苗字が「異界とか物事の深奥」を表わすのですが、この苗字は我が父が幼くして養子に出されたがために獲得した、元の苗字であっても他の苗字であっても実現できない、私にとっては最高の苗字でした。姓名とも総合的に異界の名探偵であることを自認できる、誇らしい名前になっています。
おかげさまで、この歳にいたり、異界とこの世界のおよそ謎としていた事柄のすべてに理解が及びました。まさに、すべてのことが解き明かせました。
それでも、この探偵の前には、まだこんなのがあるぞと、新情報がもたらされていて、それらも課題として、今までの理解知識の一環(繋がったリング)に組み込んでいこうとしています。この命尽きるまでが、その行為の繰り返しになりますが、実にわくわくする工程になっていることを実感します。今では、それを日々書き留めつつ解釈を施し、この環を厚くしているところです。
これらの工程を与えてくれたすばらしい摂理に感謝を捧げます。

新神話のあらすじ・・・蓬莱第一・第三部

前の記事・第二部の続きです。
ところで、この図柄と拙著の中身の文章を転用している著書がおりました。
彩明日迦というペンネームで、その著も「弥勒降臨」という著書名で、名古屋の友人が見つけて文章が転用されているから抗議したほうが良いと言ってくれたため、その存在がわかったところのものです。
見れば、くどいほどに出典が明記されており、転用は心情的に許容できるものでした。それが今回の出会いとその意義に関わりがあると、後になって分かってきたのです。
私の図柄が彼の著書「弥勒降臨」に転用されている場所というのが、なんと「つるとかめがすべった」の童謡に関する彩明日迦流の解釈の個所でした。
彼の解釈では、これは預言歌であり、鶴と亀が出会うことにより、鳳凰(火の鳥)が出てくると書いてあり、その解釈部分に、私の出案した図柄と私の書いた幾分かの文章が転用されて、しかも挟まれてあったのです。
これにより、鳥取の日野の大地震は、シンボル的な鶴と亀が出会ったことで、鳳凰火の鳥の復活の兆候として起きた天変地異だったと認識せざるを得なくなりました。
2000年10月6日とは、移情閣でのあの日、あの時刻からジャストまる9日=216時間(=2+1+6=9)でもありました。そして日野・鳥取=火の鳥です。
イナンナさんは大本教系宗教団体MOAの篤信者でもありましたから、九という数の重みは知っていました。九とは大本教が復活を見込む「ウシトラノコンシン」を古くから奉祭していた九鬼家にちなむもので、私も九鬼文書の解釈本などから、出口王仁三郎の思想に接近しようとしていたことがありましたから、まず象徴的数字である九は特別な数と分かりました。
しかも、この人の友人である同教団信者のMさんという人から、大地震の起きた日が、旧暦の九月九日(ひのととり)の日であると知らされました。いよいよ我々がかもし出したことの神秘と、大本教の数の神秘に触れることとなったのです。
また情報をもたらしたMさんの家の家紋が、八角形の中に三の字が入る(角に三もしくは角に三木)というもので、まさに三層八角の移情閣すら暗示したものとなっており、我々に分からせるための符合が幾重にもなされていることが判明したのです。
さらに、その年の内に、飛鳥キトラ古墳の壁画で南面の見えなかった壁に朱雀がまさに飛び立とうとしている様で描かれているものが見つかったことは衆知のこと。それまで飛び立つ寸前の朱雀は発見されていません。
こうして、あらゆる現象が火の鳥復活の兆候として出ていたことに納得し確信する我々でした。2000年の末から2001年にかけて、武者震いするほどのシンクロ現象のラッシュだったのです。
「弥勒降臨」という著は、著者は決して賛同はしていないものの、火の鳥の神話に置き換わっていくどんでん返しの秘術について看破していたのです。この著者は、私の考え方にけっこう感化を受けたとみえ、私の文を随所に取り入れています。まるで私に成り代わろうとしているかのようでした。
また、2003年になってからのことですが、ネットを見ていると、つるとかめの秘儀について、以下のように解かれたページを見つけました。
enso.jpg
この解釈は私が施したものではありません。おそらく大本教系の人物が施したと思われる解釈文です。
そこにはイナンナさんと築いた「八角形の篭目、火の鳥、夜明け前、鶴と亀の渾一、蓬莱島、国常立神」といった新神話に取り入れたキーワードがことごとく並んで出てきたため、あまりにも強烈でした。
その起動役を果たしたのは、神々の雛形を背負った我々でした。我々はついに神話を乗り越える方法を見つけたのです。絶望を希望の方向にレール換えしてしまう簡単な方法をです。
では、次にやるべきこととはなにかということが問題となりました。
イナンナさんが関わるのが大本教神話でした。では、分派したとはいえ、悲願にしているのは、ウシトラノコンシン(国常立神)の復活ではないのか。九鬼文書によると、国常立神は邪神のクーデターにより殺され、丑寅の方角に封印されてしまったとされています。いやしくも神ですから、死ぬということではなく、魂が何らかの呪術によって拘束されているというわけです。この拘束を解き、元の主神の座に復帰していただくことが、この世の建て直しには必要だということになります。
今の世界は、滅ぶことが義務付けられたかのような状態です。誰も彼もが利己主義者となり、世界の退廃するのをなんとも思わない現実があります。そのこと事態、異常であり、さじを投げているに等しいものがあります。これは邪神の為せる業、起こさせる業というものです。早々に邪神を更迭せねばなりません。
ところで、このサイトにかつて一小説が置いてありました。再度ここから掲載します。
舞台はシュメール。その中でスサノオが古代都市スーサの王として出てくるほか、国王が暗殺されているのですが、イナンナさんが幼い頃から夢で見た、国王である父親がクーデターに倒れたという過去世のビジョンをアレンジして書いています。それは遠望的に国常立神をモチーフとしているのです。
私はこの人が国常立神にまつわる神話を過去世において模擬しているのかもしれないと思い、ならばこの神の救出と復活こそが我々縁を得て集まった者の使命かと考えたわけです。
ちなみに、この人はこんな夢も臨死の時に見ています。
黄金の鳥の背中に乗り、地獄の最下層から、天国の入り口まで見聞したというもので、天国はまだ建設途上のぼうぼうたる光の状態で、いずれ出来上がることが予感されたとのことです。未完の天国こそが、国常立神の建設する世界であろう。黄金の鳥とは火の鳥ではないのか。火の鳥、国常立神、その復活、これらが我々の間のテーマであるようでした。
それによって導かれるものは、世の善良なみなが理想とした正義の時代の打ち立てです。誤った価値観が人を支配する邪神支配を終わらせることです。
この人も、はじめはそれが達成できることを喜び期待しました。あらゆる有情の黄金時代を共に夢見たわけです。後はいかにして、復活劇を演出するか。ここまでくれば、狂気の沙汰かもしれません。
我々は、巨大な怪物に挑むドンキホーテとなったのです。
いっぽう、イナンナさんは、鳥取西部大地震のあった月のうちに、夫と離婚を成立させてしまいました。あまりにも速い展開でした。というのも、夫のほうが急に悪夢を見るようになり、その原因を彼女と考えて、家出して別居するようになり、背に腹は変えられぬと離婚をほのめかしてきたというのです。それを好機と捉え、この人は承諾したといいます。
こうして、生活面においては、閉塞状態を作り出していた元凶から解放された感がありました。しかし、離婚の結果は、子供ら三人をすべて引き取らされ、しかも自分で働かねばならなくなったことでした。こうして、今度は家族によって縛られることとなったのです。それは臨死のときに采配の霊との約束に基づくことであるかのようでした。だが、はるかに解放されたものになったことは確かだったでしょう。仕事に就き、潜在させていた営業能力を発揮し始めたからです。さらに、私を近未来のパートナーに選んでいてくれたのもこの頃です。
それからというもの、この人は生活面での子育てや仕事にいそしまねばならなくなり、形而上の事柄に関しては、私が主体的に動いていきました。これは大本教流に言うなら、裏神業ということになります。この教派の人も誰一人知りません。それゆえ裏神業なのです。
私はかつて千数百年前に作られた旧神話によって、現代すらも動かされているかのような状況を見て、神話は現実をリードするものだと仮定することができました。たとえば、日本が原爆を受けた後、国津神の地位に転落し、常勝の天津神アメリカの追随をすること。この国津神の国は貿易で富み栄えること。潮(相場)の上げ下げで貧乏にされることなどが古事記には書かれています。このような神話に歴史をリードさせていては大変です。日本経済の破綻が叫ばれているだけに、怖い話なのです。
逆に神話を、特別に励起された力を得た者が作り直し、築いた成果を台無しにすることなく、精神文明と科学文明を調和的に発展させることも可能です。
ムー、アトランティス、レムリア、小さくは短期間に興亡した幾多の国家や文明。まさに地球文明とは、宇宙に飛び出す一歩手前でいつも頓挫している観がありました。
そこには、おりおりに生じた細かい問題の数々よりも、トップダウン的な理念に問題があると見なせます。
滅びの理念(神話)が常在するゆえに次に進まず、精神的発達の未熟な子供の時代の繰り返しに終わってしまう。これは遺伝子のようなもの。元を良くせねば直りません。歴史のシナリオの規定された遺伝子を遺伝子工学的に改良せねばならないというわけです。
こうして旧神話にとって代わる新神話を作ることになりました。私が他の神話を凌駕する宇宙創生から恒久的な宇宙運営が可能となるところまで、新神話のシナリオを作りました。
かなりエッチな脚色もしました。文章が下手で、子供っぽい部分もあるかも知れません。御伽噺レベルですから。でも、いずれにしても、新神話です。一年以上かかって謹製しました。
それは、確かに稼動したのです。新神話に登場する主神梵天は確かに我々に力を与えていました。私には直接かかり、たぶん超宇宙論の発想を与えたり、今では神話制作を指導しました。この人には夢見において、鼓舞と教導を与えました。夢の中の梵天は私に似ていたといいます。ただし、もう少しりりしかったと。
私は、邪神の妨害を感じ取り、早々に邪神駆逐の過程が実現するようにシナリオを組みました。そして、2002年6月6日に天下分け目の決戦の時を置き、正神勝利へとシナリオを誘ったはずでした。
ところが、見込みが甘すぎました。邪神の妨害。そう言わずにおれない事態が発生し、計画は頓挫してしまったのです。
イナンナさんの背信がそれ以前からあったのです。神業に携わる者がよもや裏切ろうとは思いませんでした。そもそも、この人が私にこの大役を持ってきたのです。私に貴重なキーワードを与え、それによって魔法のパワーを身につけた感じの私ともなったのです。私に加勢していた宇宙創造神である梵天が、頻繁にこの人の夢に現れて、教唆していたというのに。梵天すらも私の目を介してこの世を見ているせいか、この人の嘘を見破れなかったのです。
彼女には、霊媒体質という重大な欠陥がありました。それはちょうど霊体に空いたホールのようなもので、この人の場合、過去世から訓練によって作り上げてきたもののようでした。つまり、巫女としての転生を繰り返してきたのです。
私はこの人が精神的に萎えたときのために、なるべく会うようにしていました。いつ何時、おかしな霊がそこに取り付かないとも限らないので、気が萎えないように、私は自分の幽体の一部をそこに残すようにしました。これは、その意味を示した短歌です。
-人知らね一羽二羽と幸に換へ織れる錦の鶴の毛衣-
会えないときは、電話で。この人のことを思えば、それだけで愛情の流れとともに、私のパワーがこの人に向かいました。そして、そのつどこの人は精神的な安堵感を得たのです。
ところが、敵はもっと狡猾でした。もっと悪いものが取り付いてしまったのです。それはこの人が生活していかねばならない現実問題の中に潜んでいました。この人は急速な離婚後、仕事を探さざるを得ず、贋物の太陽をシンボルにかざした企業に勤め出したのです。この企業の売り物は、人の命でした。最も大事なものを軽からしめることを生業としていたのです。
これが私の第一の敗着でした。私がこの人の家族を十分養っていくに足る仕事と資力を備えていれば、強引にでもこの人と家族を引き受けたでしょう。そうすれば、どうあっても私の協力者であり続けてくれたことでしょう。ところが、私は自分の身だけがケアーできればいいという程度の仕事に甘んじていたために、この人を手元に置けなかったのです。つまり、人生を軽んじたことの結果なのです。
第二の敗着は、この人の企業内での出来事に対して、外部の私では力になれなかったことです。
この人は、新参者が通る先輩の嫌がらせの洗礼をしばらく受けていました。それに対し私には心の持ち方を説く程度しかできなかったのを、企業内の上司が下心から、助け舟を出すように装い、あるいは他の新人以上の叱咤激励を与えるなりの落とし手段を駆使して、貞操観念の強かったこの人を次第に手なづけていったのです。
数ヶ月に及ぶ恩着せがましいセクハラ上司の口説きが繰り返され、この人はついに2001年の8月に関係を許してしまいました。一線を越えれば、もう黄泉の囚われ人になるのに暇はかかりません。
私は、霊体のホールに懸かる以外に、このような侵略妨害の方法があったことに思いがいきませんでした。彼女の顕在意識だけは、ボンドガールのものと私は信じていましたから。
だが、この人は、この上司を過去世からの縁者であるといった筋書きすら作って擁護するようになりました。それは彼女自身の罪への合理化でもあったようですが、このような神話を別に作られていては力が殺がれることにもなります。
いっぽう新神話には、二股掛けを寛容に扱うようなシナリオはありませんでした。
なぜなら、私自身、精進潔斎など、彼女とのこの期間は自らに厳しく望んでいましたから。だから、彼女にもそれを暗に要求していたのです。
それはこの人にとって、自らを自殺に追い込むほど苦しめたのかもしれません。この世は、いい加減であって普通の世界だったというのに。
しかし、神業に携わる者としての厳格を守れなかったことへの反動がこの人に起きてきました。2001年の下旬に、夜の道路をぼんやり横断していてベンツに撥ねられてしまったのです。この人は、この時点で死にました。魂が起こした自殺といってもいいかも知れません。
ところが、この人に残された寿命は、臨死のときに授けられたものです。このまっとうのために、つまり両親と家族のために生きるという目的のために、生きなくてはならない宿命を残しておりました。こうして、翌日には怪我も収まり、何事もなかったかのように仕事に出て行きました。
また撥ねた側は、同和の人で、罪にも問われませんでした。補償もむろんありません。まあ、いかに黄泉らしい世相でしょう。
私はこの人の死を見極めることができませんでした。寿命の終わりではない、使命を持った魂としての死を。
そもそも、この人には、霊魂が複在するという状況がありました。神がかりするのもひとつであり、私と知り合う以前から、複数の霊魂がこの人の肉体を共有しておりました。だから、ボンドガールとして使命を持ってやってきたはずの魂が分離して去るということが実際にあったようです。(それは白蛇の霊でした。のちに青蛇のかかったカンナオビに合流して、新神話を助けることになります)
逆に、邪推してその他の憑いていた霊魂が、私の妨害に回るようになったのです。元の意識状態のように見えますが、どこか性格が変化しています。かつての記憶を引きずっているため、にわかに変化するようにはみえなくても、敬虔さや貞淑さが失われていっても、また嘘だらけになっても、平然と普段を装うようになりました。
こうして私は何事も知らぬままに、ずるずると関係を引きずりました。そして、2002年6月の不成功。それでもなお、私はうまくいったと思っていたのです。
しかし、この人に起きた二度目の事故は、その名も「鶴亀」さんという珍しい名前の人物の車の飛び出しによって起きました。これはまったくの本名です。その人の車が優先道路を走っていた彼女の車にぶつかってきたのです。
簡単に処理が終わるかと思われたその後の処理が、鶴亀さんの勤めている司法書士事務所の主によって妨害され、長い間解決がつかず、彼女の気苦労の元となったのです。
この時点で、この人の不義を見極めて、神話を寛容なものに作り変えるくらいのことが必要でした。それも私は洞察できませんでした。
第三の事故は、ついに大本教の篤信者の老人のバイクとの接触事故という形で起きました。
このシンクロが、この人が自らのした罪に対する恐れを持った最後の機会になったようです。私と共に新神話に関わる限り、意味深な事故は続くと判断したようです。
このころ当然、この人の使命を持った魂は逝去して、邪神にいつでもすげ代わるような打算的な邪霊がこの人の記憶だけ借りる格好で居ついていました。ただ奇妙なシンクロだけが不思議さをかもしていたのです。
最初の頃に懸かった邪霊は、彼女が霊媒状態になったとき、こんなことを言いました。
「悪いことをするのがなぜ悪い。この世には、お前みたいな考え方が嫌な者がたくさんいる。しようとしていることから、手を引け。さもなくば、この女がどうなってもしらんぞ」と。
それでもまだ彼女は、まともにもどったとき、記憶にある限りのキーワードを私に提供してくれようとしました。
しかし、当初の使命感はなくなり、むしろ私のしていることに嫌気を催すようになりました。そしてついには、サイババの集会所に催しの行われていない時に行き、そこにいた邪霊の感化を受け、その後中華博物館を見に行った時点で、この人に取り憑いていた呉錦堂時代の悪霊が表面に浮上してきて、帰り道、いきなり二度目の移情閣訪問を要求してきました。
私は何か意味があるものと思い、それに従ってしまいました。その日、いつもは閉ざされていたはずの三階がたまたま真っ暗闇ながら開いていて、そこに取り憑かれて吸い込まれるようにして入っていくこの人を追いました。私は背後から持っていたデジカメでフラッシュをたきながら5枚ほど写してみたのです。持ち帰って見れば、ほとんどの写真に何体かのオーブと、発光体で虫食いのようになった孫文の銅像の前に、明らかに女性の顔をしたオーブが、うらなり顔の大きなオーブと寄り添うようにして写る異様な写真が撮れたのでした。
その後間もなしに、閉ざされた三階に居ついていて非業の死を遂げたという「ファンナン」という名の娼婦の霊がこの人に懸かって、私に対して過去世の呉錦堂の行状について文句をつけてきました。私が呉錦堂の転生と思い込んだこの霊は、彼女を介して露骨な妨害をかけてきたのです。彼らは地縛霊ですから、生きている人間よりもはるかに視野狭窄に陥っており、私の書いた新神話の文章の手掛かりだけで、本質を見極めることもせずに怒っているのです。
私は神話にシンクロを与えようと、そのような設定をしただけなのですが、この霊たちはまじめに捉えてしまっているのです。しかし、神話が迫真のものとなったことは確かでしょう。
するともう、かかられた彼女の心は復讐心の塊のようになり、本末転倒の考えにしかなりません。彼女のまだしもモラルのあった思考回路が、すでにどこかへ行ってしまっておりました。
慈善家であったと思われる呉錦堂が、何か忌まわしいことを女性に対して行っていたというわけでしょうか。それとも、この人の嘘つきの癖がこのような芝居を打たせたのでしょうか。
そもそも、なぜ移情閣の三階だけが今なお開かずの間であるのでしょうか。理由について外部の者の知らぬところですが、何か忌まわしい過去を引きずった霊による現象が起きるゆえに閉鎖されている感も、あれだけのオーブを見れば頷ける気がします。(呉錦堂はフリーメーソンリーで、三階をメーソンの儀式の間にしていたことが判明。そこでおそらく、纏足をさせた娼婦を使った生贄の儀式をしていたようです)
しかし、ここが毎日のように日の目を見ない限り、閉ざされた霊たちは浮かばれることはないし、また世界にも真の夜明けは来ないと言えるのです。それはこの著や新神話を読み進まれるなら分かることと思います。
簡単に申せば、三階は鳳の間であり、ある謎の神霊の居場所だからで、そこがこのような悪霊の汚すところとなっていることは、そのまま雛形である私への霊障という現状を表わすものだからです。結局私は、こうした悪霊たちの妨害に遭うこととなりました。また、私は二階の龍を解放し、結果的に彼女の道を開きました。これはいつの頃からか二階以下が開放されていることの理由でもあると思われます。
しかし、三階は中国政府の意向によるのか、何の理由かも明らかにされず、開放のめどは立っていません。これは明らかに、世界の解放に対する妨害工作とも言えます。三階に魂の典拠を持つ者として、厳重に抗議したいことです。そもそも、私は龍を助けることによって、封じられる対象が鳳すなわち私に付け替えられただけなのです。恩知らずの龍は、自分さえよければと、私をおかしなシンクロの中に取り込み、見捨てていったのです。私はこの龍と移情閣の管理者に腹を立てています。
こうして、この人は前日に起こした不義密通による家庭内トラブルを逆手にとって、怒りに任せて、2002年8月下旬に、一方的に別れを通告してきました。
そしてあろうことか、新神話で最も肝心の日に、この人はあえて神話崩しさえもやったと言いました。これによる千億兆の有情の損失は計り知れないものとなりました。私は有情の分を含めて未来永劫この者の魂を憎むことにしました。
元の魂が逝去していれば幸いです。乗っ取った邪霊のみに未来永劫危害が加わることでしょう。むろん、使命のない邪霊の魂が神話崩しの術などをかけても無駄なのですが、この人の口から今まで嘘で塗り固めてきたことを宣言したため、私はそれを真に受けて、この人と自分で作り上げたキーワードによる「脈」を断たれて、新神話を頓挫させてしまいました。この人は二つも三つも、妨害の意図に満ちた暴言を吐いて去りました。そのどこかで、頓挫するだろうと踏んでの物言いでした。ひどい話です。
私は梵天の命を受けてシナリオを動かそうとしていました。この人が純粋に私に協力してくれていたとき、梵天はこの人の夢の中に立ち現れました。この人の使命の魂が逝去した後にも、梵天は夢見をさせました。
しかし、私の計画をぶち壊したと宣言した時点から、梵天も意趣を悟り、私と共に怒りました。私が事態を悟れば、梵天も事態を悟ります。梵天は私の目と意識を介してこの世を見ているのですから。
しかし、この人は厚かましくも、別れたかなり後に、さも名残惜しそうに梵天が夢に出てこなくなったが、どうしたのかと問い合わせてくる始末でした。また、いろんなインスピレーションがかつてはもたらされたのに、いつしか途絶えてしまったといった話もしました。
当然のことでしょう。いくら心のねじくれた者でも、自分の裏切りを棚に上げ、そこまで厚かましいことは言えはしません。元のこの人の高尚だった魂は肉体から逝去した。だから、霊感はなくなったし、梵天の妻の弁天も懸からなくなった。それをさも残念そうにしているのは、肉体の側の記憶というものを、ひねくれた邪霊が損得感情で語っているだけなのです。そうでなく、まだ元の魂が残っているのなら、単なる無能な工作員としてのそれです。元の魂よ、もう金輪際でしゃばるなと冷ややかに言ってやりたい。
かつて弁天を気取った者も、もはや邪霊が記憶を借りて言わしめているだけのことで、梵天とは無縁のものとなったのです。そして弁天もこの人に関わるのはやめました。
それでも私は、この人のことを、私に重要な使命とそれを実現するためのキーワードとパワーを与えるためにやってきて、図らずも逝去せざるを得なかった戦士として記憶してやりたいと思っています。
しかし、新神話の頓挫の結果、歴史の成り行きだけが早まった感があり、火の鳥もコントロールを失って、どう動くか分からない状況となりました。今でも頓挫したなりに、新神話は動いており、新神話の規定するとおり、世界の成り行きは旧神話の規定するものとなりました。このままでは世界は滅び、選民によるサバイバルが行われるという過酷なものとなりましょうか。
これは2003年前期の時点の記録ということになります。
                         平成十五年十一月 奥人
追記
その後、新神話を補完してくれそうな女性が次々と、二人現れました。その彼女たちは、思い込みが強いか無関心で、協力関係を築くことはできませんでした。そのうちのひとりの話 ⇒ 岩戸別けその一
しかし、イナンナもよほど申し訳なく思ったか、私の50歳の帳を破る役目の最初に現れたカンナオビに連絡を取り、復縁まで道筋をつけたため、それからはカンナオビがすべてをフォローしてくれることとなったのです。

新神話のあらすじ・・・蓬莱第一・第二部

前記事・第一部の続きです。
1999年、私はネットの趣味の取り持つ縁で、峰桜さんという人を好きになりました。この人は既婚していたものの、今から思えば最愛の人でした。私は出会ったことはないのです。しかし、心を通わせあうことができました。私はこのとき、自らの幽体を飛ばして、向こうの有様をつぶさに観測して、愛し合いました。しかし、この人の立場を悪くすることはできませんでした。
2000年のこと。やはりネットの縁で、イナンナさんを知り、心のケアーをすることとなりました。そのうち実際に出会ってから、この人の身に急変があったため、峰桜さんと別れねばならなくなりました。私は鶴なもので、一度に二人と付き合うことはできなかったのです。峰桜さんをとても悲しませました。でも、仕方ないことでした。
イナンナさんと私は、まさに鶴と亀の出会いとなりました。それぞれにそのシンボルに関する占い師の見立てや因縁を携えていたのです。
とくにイナンナさんには、その出生にまつわる因縁もありました。この人は、生まれてきてはならないのに生まれてきてしまった人だったことです。
その事実の分かったのは、この人が25歳のころに臨死体験したことによります。この人は、10日間ほどの臨死の縁をさまよい、その中で様々な幻視体験をしてきました。
霊界にいる身内から、なんでこんなところに生まれたりするんだ、辛いだけなのに、といった非難の言葉をあびながら、生まれてきたそうです。それでも探すべき人がいるからという思いから、この世に懸命に生まれてきたそうです。
それを志半ばにして、死神につかまり、連れ戻されようとするのを、鮮烈な中陰の死後体験を経て、生死を差配する霊から矢継ぎ早の一千問にもわたる、生死を決めるためのテストを次々とパスしていきました。そのとき何人もの霊人が、入れ替わり立ち代わりこの人の横に立って解答と弁護のアドバイスをし、その中に私も居たといいます。
しかし采配の霊は、何としても彼女の望みどおりには生かしたがらなかったのでしょう。今後両親のために生きるという条件を呑むという約束で、臨死から生還させました。
この重みを深く心に刻み込まれたこの人は、親があてがった見合い相手と素直に結婚しました。しかし、結婚生活は思わしくなく、三人の子を設けたところで、養育を困難と判断した夫やその実家との間で不和になり、睡眠不足による体調不良と、家庭崩壊してゆく成り行きに思い悩んだ末、そのころ始めたインターネットを手段に、私が開いていたサイトを探し当てて、連絡をしてこられたのです。
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「はじめまして、でもまじめです」という題で2000年6月に寄越されたメール
HPざっとですが拝見し、世間では不思議の一言でかたずけられることを、あくまで客観的な態度で、分析、考察されている態度に安心し、このメールを書いています。
25歳のとき臨死体験をしました。臨死体験をすると奉仕の人生を生きるようになる、なんていいますけど、私は逆でした。
それまで、世間の方よりははるかに精神世界を追い求めている人間でしたので、反動がでてしまい、生き残った人生を唯物的に過ごしてきました。
(せっかく死ななかったんだから、ふつうの人生を生きたいってやつでしょうか?)
普通に結婚し、普通に子供を産み、お金に充足感を求めて・・・でもだめでした。
自分の5感以上のものに、ふたをすると、かえってマイナスエネルギーが、噴出してしまう。
だからやっぱり自然な自分を、あるときから認めて生活しています。他人には変でも自分には、自然だから・・・
木々の声や、オーラの見えること、予知夢、アカシックレコードって言うのかな?図書館に行って、真理を知ってきてしまうこと、そして過去・・・これが私自身のすりきれた記憶なのか?DNAのなせる技なのか?
この頃過去がパズルのピースのように、いっぱいそろって、でも繋がらないもどかしさで、ネットをさまよっていたら、奥人さんのサイトにたどり着きました。
・・中略・・
奥人さんのサイトに出会えてほっとしました。人に言っても変に思われるだけで、理解してくれる人は少ないですから。
でもどうして、私達のような人と、世間で言う普通の人がいるんですか?すごく疑問なんです。私には今の世界観、歴史観っていうのはものすごく狭くて苦しいんです。この中で魂まで満足して生きることは難しいと思うんです。
でも苦しいという声もなかなか聞かないですよね、すごく不思議です。どうしてなのでしょうか?
ご迷惑でなかったら、レスをいただけますか?
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私の論を読み、自らの立ち至っている不思議なことが理解できる人と、私のことを解釈したようでした。とくに童話「たまとしてうまれ」のたまに自分の身の上を重ねて、いたく共感してくれたようです。この物語は、私の身に実際にあったことです。犬以上になついてくれた猫がいました。それに対して私は満足な愛を与えてやることができませんでした。この猫が戻ってきてくれたらとどれほど悔やんだことか。魂の縁ある者が、どんな化身を通してでも逢いに来ていたと信じて作った物語でした。それが、実際の人間として現れてきていることに驚くことになるのです。
私は心理カウンセラーとしての立場で連絡を取り合ううち、この人は、もしかすると探している人物は私かもしれないと書いてきました。
探している?
それはこの人が、不思議な経験の中でも、とくに夢見のビジョンを幼い頃から見ており、10歳のときに繰り返し立ち現れた舞子(神戸市垂水区)の移情閣の夢に出てくる人物のことでした。
繰り返し、魔物から逃げている夢を見る。それは「お前はほんものではない」と叫びながら追いかけてくる。自分の持っているバッグの中身に追われる原因があるらしいが、破れ目から金色の光が時折さしている。「私はほんものよぉ」と言ってなおも走れば、魔物は消えていった。走り続けた先に必ず移情閣が出てくる。そこに一刻も早く入りたいのだが、扉も窓も締め切られており、入ることができないでいるところで目が覚める。
そんな夢を何度も連日のように見ることがあった後、ついに扉が開いて中に入れた夢を見た。中は現存する移情閣とまったく同じであった。行ったこともない移情閣の中をすでに知っていたというのだ。(移情閣は明石海峡大橋の開通に伴い移設されて、日中国交回復記念施設として1999年になって初めて公開された。それまでは私邸であることもあり、すべての戸窓は締め切られて現在地より数キロ東の海辺に佇んでいた)
ところが、一旦入ると、次の夢からは出られなくなった。あるとき、真っ暗な部屋に監禁され縛り付けられて性的な拷問を受けていたようだという。
そんな夢をまたもや繰り返し見ていたが、あるとき明るい部屋にいて二階だと分かっているところに佇んでいた。すると、三階から階段を伝って青年が下りてきて、この人のところに歩み寄り、「長い間待たせたね」と言って抱きしめたという。するとやがて、建物の窓がひとりでに開き、二人して日差しのある外に出て行くことができた。不思議なことに、それ以来、移情閣の夢は見なくなったという。
イナンナさんはこの夢解釈を長い間してきたようです。彼女は私に当然のことながら問います。移情閣を知っていますか、と。しかし、私は移情閣には行ったことがなく、ただ国道2号のすぐ南にあったことから、車で通るたびに朽ちかけの面白い洋館があるなあと思う程度のものでした。
しかし、私もこの夢解釈に参加することになりました。なぜなら、この人にはあまりにもたくさんの謎があったからです。臨死のことといい。私はすでに難しい古事記の謎解きをこなしていましたから、わくわくするくらいの謎解きワークとなったのです。
移情閣は、元の場所から移設されていますが、建物自体は昔のままであり、今では孫文記念館となっていて、観覧料を払えば中を見ることができます。
初めて文通してから三ヶ月たったある日、私がもしかすると夢の中で出会った人ではないかと思うので、私とその場所に行って欲しい、もしそうだったなら、それなりの現象が現れるはずだからと懇願してこられたのです。
夢の青年は、名を「??タイシ」と告げたように思うといいます。私がそれは聖徳太子ではなかったの、と問うと、記憶があいまいなのですが、キンイロだったかも知れないと言います。キンイロタイシ?どう調べても、実在した人物ではなさそうです。
夢の成り行きから、イナンナさんは、この青年が自分の開運の鍵を持っていると考えていたようです。とにかく行って、私が目指す人であれば、象徴的に窓が開く、つまりこの人にとって解放されるか、閉塞された状況が打開されるような展開があるに違いないと考えたようです。
私は、指定された当日(2000年9月27日)、参りました。
非常に大事なことのように思えたため、とにかく行かねばならないと思いました。
というのも、それまでのメールのやり取りで、この人物は何かの神の生まれ変わりではないかと思ったからです。明石海峡に関係した竜神であるような気がしていたのです。精進潔斎はこの一月前くらいから始めていました。粗末なことはできません。
明石駅西口で会い、修理中だった車の代車に乗って舞子に走らせました。お盆の時に続き、ちょうどお彼岸に二度目の故障が起き、多大な出費を余儀なくされた矢先でした。神聖な人との付き合いが始まると、えてしてこうなるのです。贖罪をまずやっておかねば、出会うことも適わぬと感じさせるものがありました。だから、仕方のない、むしろ快い出費と捉えていました。
お昼になったので、舞子ビラで食事をしてから、車を舞子公園に移し、観覧料を払い、移情閣の中にはいりました。中を散策し、お互いについて語り合ううち、不思議な意気投合がありました。建物それ自体は気持ちいいというものではありませんでしたが、中に入ると、私も夢の中で昔のフィラメント電燈のともる古風な建物の中にいる光景を見たことがあり、それに似ている気がしました。
開放された窓からはさわやかな涼風が吹き通り、すかすがしいものでした。お互いが知っているかどうか確かめようと、見詰め合いました。この人は乙姫顔というか、どこかで記憶している人でした。
また、この語らいの中で、私が鶴で、この人が亀という互いのシンボルが確認できたために、不思議なとり合せだなあと言い合ったものです。(私はむかし拝み屋さんから、祖母経由で最上の松にとまる鶴だと指摘されていました)
それまでにネットで調べていたのですが、一階の天井に金龍の彫り物があるゆえに二階は龍の間。二階の天井に鳳の彫り物ゆえに三階は鳳の間と定義できていました。そこで、鳳が龍に出会ったという夢解釈もできていました。これもまた鶴と亀同様、鳥類と爬虫類の対応です。
降りてきた青年のいたという3階は、観覧できない開かずの間になっていて、真っ暗な階段の途中に立ち入り禁止の看板が立ててありました。私は、階段の途中まで上がって、上の様子を見れば、天井からの採光を幾分か受けて、天井額がひとつ目に入りました。そこには墨書で「蓬莱第一」と書かれてありました。
私は手を繋ぎ終始寄り添ってくるこの人に、二階の例の場所で、「キスしてもいいですか」と問いますと、「それはちょっと。いまそれをするとすぐに別れなくてはならない気がするから。手を繋ぐだけにしてください」と言われました。まるで初めて会ったのに、幼馴染のように寄り添いながら、すべての部屋と陳列品の数々を見て回りました。当日のうちに、この人の口から、夢の中の人はあなただったようですと言われました。
その答えとなる現象は、移情閣の二階の所定の位置で、夢をシミュレートした日時からちょうど九日目、216時間後に起きました。(216=2+1+6=9)
2000年10月6日午後1時半の鳥取県の日野町で起きた阪神大震災級の地震です。
また、しばらくの後、イナンナの友人の連絡でわかったのですが、当日は旧暦の九月九日重陽の節句で、ひのととりの日でした。
九という数が並ぶこと。そして火の鳥が二度にわたって暗示されていたこと。これは奇跡的なことでした。
マグニチュード7.3の阪神大震災と同等の大地震にしては、死者が出ませんでした。阪神大震災のときとは雲泥の差です。被害がなかったから、なんだこの程度のことと思われるかもしれませんが、深刻な被害が出ずに、大きな地殻変動があったことは、何か良い神が動いた証拠です。生命を大切にするタイプの神が動いたと言えるかもしれません。
阪神大震災のときには、淡路島の野島断層がきっかけになったとのことで、イザナギの神が世に出現されたという感があり、私はそのことを「山姥の歌」という物語にしました。古事記のイザナギの神は、イザナミの神を黄泉の国から救い損ねて、結局、最終戦争の末、選民だけが汚土からの脱出を図るということで、生命の滅亡という悲惨さが根底に潜んでいるのです。それが確かに被災地を瓦解させ、6000人以上の人命を犠牲にしたと解せます。日本は世界の縮図となら、世界最終戦争という激震時にも同様の光景が広がることでしょう。
だから、神話を作る時は、作り手の思いによって、世界がどうかなることを念頭に置きながら編まねばならないのです。たとえば為政者は、神話によって世相をコントロールさえできてしまうから、こうした呪術性あるものの制作には心血を注ぐのですが、果たして庶民の幸せの側を優先しているものでしょうか。
鳥取地震に関わった神は、旧神話の神とは明らかに違います。現れ方から推測するに、すべての生命にとって優しい処置をするように思えました。
前にも書きましたが、私は平成7年5月に、一著を世に出しています。
この著書は、阪神大震災の瓦礫の下をかろうじて潜って実現したものです。
次に掲げる作品は、その自炊版電子本です。
「古代日本にカバラが来ていた」
その中で目玉だったのが、図形の発見と、古事記の神話部分の預言的解釈でした。
預言的解釈のほうは、日本が原爆を落とされた後の現在進行形のシナリオが描かれているというものでした。そこにはこの時代の終わりまでが網羅されています。解釈をお読みになれば、おそらく日本神話によって世界さえもが動かされていることを感じられると思います。
そもそも私は、聖書の予言などに、この世の終局ばかり説かれていることに対して反駁するような予言であってほしいと、古事記に期待したのでしたが、結果的に同じであることが分かったのでした。聖書も古事記も、この世が終わることを必然のものとしていたのです。聖書は終わりの後に、神の国が来るとしますが、古事記はそれすら書かれていません。ただ、ひとつの文明が終わりを告げ、次の時代への陸海空の舞台設定をした段階で終わっています。
終わることが命題であって、それ以外の選択肢を与えないのが世界の予言であるらしいのです。歴史展開の基本パターンを与えるのは、イザナギ、イザナミの黄泉下りと、イザナギの黄泉脱出という神話です。このどちらの神にも、どちらに属するか性向によって大別された人類を仮定してみれば、分かり易くなります。
価値観の転換は古来何度もありました。しかし、最後のこれは生態系を覆してしまうほどの致命的な破局となるのでしょう。
これを回避する方法は、すべての人の生き方が今までと正反対ほどに変わらねばならないと、ホピ族などは考えました。柔軟な思考回路の人間ならばそれも可能でしょう。ところが、人はみな、間違っていると気付いていても、今がそれで満たされているなら、その状態に甘んじようとするのです。だから変わらないし、変わることに対して、みな極度に臆病であるのです。
集合をなして行動し、その結果が滅びと見えていても、集団催眠に懸かったように、追随するのです。終わりのときは、さぞ辛かろうと思うのですが、築いた財や築いた銅像を、竜巻に巻き上げられるようにして破壊簒奪されるのです。それでも人は、みな一並びだから、仕方ないことだと諦観してこの世を去るのでしょう。良き頃の思い出を胸に。人はそのような合理化の上手くやれる生き物のようです。そう。どこか滅ぶことに対して、諦観というか、憧れというか、美学を持っているのが人類なのです。
成り行きがこうなのだから、何もできない。一個人では特に。だから、大衆迎合に落ち着いて、そこで安堵感を得ているのです。
それが何によるのか潜在意識の底に向かって辿れば、おそらく世界の成り行きを規定しているシナリオに行き着くのではないかと思います。この絶望的なパターンの影響を人は知らず知らずのうちに受けているのです。
そのようなところには、進化の芽など吹いてきません。同じことの繰り返しをしても、それでよしとしている。その先には、またも何度目かの人口ゼロ時期からの再出発という涙ぐましい努力が要ることになる。数千年がまたも必要になります。
ムー、アトランティス時代から来ていた魂がまたも次の時代にお目見えする。ソロモンがいみじくも嘆いて言ったように、天の下には真新しい物など何もないということになります。旧い神話による限り、多くの犠牲を出し、基盤を瓦礫の山と化す阪神大震災のような成り行きとなる。だから、このパターンを希望あるもの、滅亡に至らないものに乗り換えるシナリオが必要となるのです。私はその希望ある見込みを鳥取西部地震に垣間見ました。
次に図形のほうです。これは神話に書かれる地名や古代大型祭祀霊場を巨視的に繋いでできる図形が、かなりの見込みで、古代中東の神聖幾何学を表わしていると考えられるのです。導き出された図形に、およその場合、淡路島の多賀、すなわちイザナギ神宮が含まれていました。
畿内の五芒星や菱十字などでは、淡路の多賀が要(カナメ)なのです。
その場所をほぼ震源とする大地震に、イザナギ神の出現の動きを見ました。この神は選民による人類存続の可能性を表わす神です。そこには世界の破滅と選民の篩い別けが意味論的に暗示されていて、人々にとっては怖いくらいの神です。
世の腐敗に関わるイザナミも怖いが、イザナギも怖いのです。旧神話による限り、避けられない成り行きとなることでしょう。だが、新神話が作られるなら別です。
第三部につづく

新神話のあらすじ・・・蓬莱第一・第一部

この記事は、2003年当時の、新神話の序盤とも言うべき時点までの記録を、ここに再掲するものです。
第一部
私も、かつていろんな予言を解く試みをしました。
総じていい成り行きを語っている風はないように思えました。
だが、もし未来を変える方法を手に入れたとすれば、自ら理想とする未来をそこに投影したくなるはずです。
ここに書くことはインディージョーンズばりの夢のような話ですが、私は今でも信じています。だが、結果的にこの過程は成り立たちませんでした。よって私だ けが自ら生きた証として記憶にとどめればよい話なのですが、誰かが夢を引き継ぐに違いないと思い、ここに新神話概説として書き留めようと思います。
いや、まだ成り立たなかったとは言えない新たな成り行きも兆していますから、これからどうなるか分かったものではありません。誰も他にできる者がいないな ら、私が力を出し切ってでもやらねばならないでしょうが、今のところ、最も可能性のある人を見つけ出しています。いや、ひとりでに彼のほうから来てくれた という感じです。話が続いていくなら、その人を中心にした話になるでしょう。でも、まだ弱含みなところがあります。
誰でも、同じことが可能です。それは、ほんのちょっとした暗示から始まり、それがたまたまわずかばかり積み重なった結果なのです。
誰かが意欲的にしないなら、私が最後までやるしかありませんが、とても危険なことで、体力が要ることです。種々の妨害に遭い、頓挫や挫折や困難の連続にな ることが予想されます。しかし、この世の有情を魂のレベルから救うには、これしかないように思います。私は今まですでにあったことを「蓬莱第一・その一 話」として書き残します。
これは、私が本当に関わった事実です。
その前に、いくつか前提になる私なりの定義と、私の存在環境について申しておきましょう。
これは一般的にそう言われてきたことであり、私がそれを後付して証明しているのかも知れません。この話を紐解くための基本原理として、読み進まれる前にお 心置きください。
私は、宇宙の構図として、天にある如くが地にもあり、地にある如くが天にもあると考えます。また、世界の構図として、日本が世界の縮図となっている、日本 が良くなれば世界も良くなる、日本がだめになれば世界も然り、逆に世界の今ある困難が日本の津々浦々に遍満していると考えます。
世界の巷に神話があり、未来の預言を語っている場合があると考えます。聖書も然り、世界を支配する神話です。主流になる神話はおよそ人類の文明の終結を預 言しています。それも決して生易しいものではなく、生態系の絶滅という最悪の事態まで予見しています。
しかし、神話がそうであるゆえに、世界がそのように導かれるという逆説が成り立つのだということを人々は知りません。誰もそのようなことを考えたりしたこ とはありません。みんなそれを一番良くても預言だと考えるだけにとどめています。
しかし、私の時空論からすれば、 すべてはプログラムだから、先にシナリオありきとなるのです。シナリオというのが神話なのです。神話としてプログラムの仕 様書や設計書が氷山の一角を覗かせているのです。
人々はそれを事前に与えられているのです。シャーマンを介して分かりやすい御伽噺として。ところが、人は意味が理解できないのと、よもやそんな仕組みとは 思わないものですから、その流れに同意しないうちに乗ってしまうのです。人々は、神の下賜した契約書の意味もよく理解せず、めくら判を押しているに等しい のです。
どういう経緯で人類が導かれるのかは分かりませんが、おそらく人類の集合無意識にプログラムがセットされ、神話のシナリオどおりに歴史が進行していくもの のようです。
私は、世界の縮図たる日本の神話「古事記」の神つ巻を訳しました。その結果、文明の末期は、聖書の預言と何ら変わることのない内容であると知りました。し かし、多くの宗教家によって解釈がなされており、神による世界の建て直しという栄誉ある未来像が語られていたりします。それが正しいのかもしれませんが、 私は彼らの予見が正しく適用されることになる時空は、ここではないと思います。
この時空の今の時点は、まさしく「黄泉の国」の 歴史を刻んでいます。この先にあるのは、最終戦争と生存人類の選別という行程です。イザナギ人類になるか、 イザナミ人類になるかという内容の。聖書の預言と何ら変わるところはありません。少数のイザナギ人類により、新しい生活が始まることを建て直しと言うかの ようです。
では、何者が神話を作ったのでしょう。神であろうと皆さんは言うことでしょう。本当にそうでしょうか?神話を書き、語ったのは人間です。彼は神の啓示を受 けて書いたり語ったりしたとは思っているようです。神が自ら筆を執ったものでないのに、どうして神が語ったと言えるのでしょう。それは、人が「日(理念) の扉」としての機能があるからです。啓示を受け、インスピレーションして書いているのです。
古事記の神話は、かなり精緻な預言書の体裁をしています。それを一代で作られた天武天皇は神がかり的です。それは、それ以前のシャーマンが受けた啓示を総 集されたのでしょうか。そうであったにしても、神の啓示があったと思われます。それは世界のシャーマンを介したものとほぼ同じでしょう。
神。この神とは、何者なのでしょう。以上の説明からうすうすお分かりでしょうが、私は決して良い者とは思いません。不幸な現実の中に人々を置き、幼時から 先入観や思想を否応なく吹き込み、一定の時期が来れば根底から考え方を覆してしまう。そして最後が魂の行き先の選別だと言うなら、何のために生まれてきた のかと考えさせられてしまいます。
我々はテストされるために来ているのでしょうか。ならば、何のテストでしょうか。魂の耐久性テストですか。ではテストにパスした魂を次にどこに持っていこ うというのでしょう。もっと厳しい特別な任務があるのでしょうか。それとも神への忠誠心を試す思想テストでしょうか。ならば北朝鮮のトップのような神かも 知れません。怖い話です。それを我々は神と呼べますか?怖いなら、そう呼んで媚びたらいいと思います。神は褒美をくれるでしょう。そのような例をすでに私 は同じ神業に携わった者に見ています。それが彼のできた精一杯の生き残り方だったのでしょう。
しかし、「地」を見れば分かるように、利権構造と利益誘導型の政策は必ず利己主義と非モラル的退廃の温床となるのであり、神の世界にも決してプラスにはな らない ものではないでしょうか。
それが「天」にもある状況です。それを神話は、このように言っています。狭蝿なすものの満ちる高天原であると。アマテラスがお隠れになったために、高天原 と葦原の中津国ともに暗い有様になっていると。そして暗にこう言っています。そこを支配するのは、混沌から成り上がった邪神たちであると。
実際はもっと複雑な経緯があるのですが、かつて宇宙の創造神から管理を委ねられた正神たちがいました。国常立神を肇とする人類および生命全般の黄金時代を 築いた神々です。ところが、宇宙の外の魔の領域からの侵犯が多くなり、その影響を受けて屈折した精神の神々があまた登場してきました。
神話は象徴的にスサノヲの暴乱と書いていますが、実際には支配神国常立神に対するクーデターが起こり、国常立神は暗殺され、それに伴う正神たちが帰順させ られるか追放されるか虐殺される事態となったとされています。これ以降、邪神たちによる利己主義的覇権拡大型の政治が神界においてさえなされる結果となっ たと。
神界は我々の前に姿を見せませんし、我々の世界とは時間軸も異なります。人間界では、神々の振る舞いに仮託した世界のシナリオを、神との仲介者である シャーマンが受け取り、私たちに神話としてもたらしたのです。神話はまさに全シナリオのインデックスのようです。歴史の大枠を伝えます。しかしそれは、正 神が撤退した後にアレンジされたシナリオが、この時代の原初の頃から私たちの幼時から関わる神話として伝えられているのです。
しかし、私はついに神話による人間界創造の原理が理解できました。まず、シナリオありき。しかし、そのシナリオは、人間界からも変更の手が加え得るので す。原理の理解できた心あるシャーマンは、神を見畏んで、変更ではなく、変更の可能性をシナリオに加えました。たとえば、岩戸別けの行程がいつの日かある ぞと。こう してそれの実行に携われる者の登場に期待をかけていたのです。日本神話にも世界神話にも、岩戸別けらしい筋書きはあります。
出口王仁三郎はその変更の突破口を開きました。彼は霊界物語において、神界も現界となんら精神性において変わらない事実を突きつけました。それは世界神話 でも同じです。人間が制作したのだから、神々も人間とさほど変わらないと言えます。神々は、人間の側から脚色されて、その性質が模範とされる。どうして もっと、神々にモラリストであるようにしなかったのでしょう。人々は、神以上の精神性になれないのです。
その上で、王仁三郎が示したことは、世界中の神 話を何とかすれば、神々の性向を改めることができ、パラフレーズされて人類の未曾有の危機も回避できるし、人々の 性向も改めることができるという事実なのです。
これは単なる仮説ではありません。ただそれを、どうやって実現するかです。
大丈夫です。日本は世界の縮図となっています。また、宇宙は、地球で起こるレボリューションを堅唾を飲んで見ています。そこで、日本の精緻にまとめられた 神話を、まるごとすげ替えるだけで、日本に現れたことは世界に反映し、世界に現れたことが宇宙へと拡大するはずです。
それにはまず、乗り越えるべき旧神話を解読できなくてはなりません。
私は、古くから古事記の神話を解読できていました。それに伴う幾多の新発見が、間違いのなさを醸してくれました。
私は、そのことにより神話を再創造する力を得たように思います。現象として、私が古事記の解釈を著書にしようとした時点で、阪神大震災が起きました。神の 戸における大激震。私はこのとき、時期の到来を察知されたイザナギ神が淡路の多賀の御陵を蹴って出られたと思いました。動くはずがないと思われていた地盤 が動いた。超弩級の神が動いたとしか考えられないと。
この思い込みの力が重要であることがしだいに分かってきたのですが、思い込みはえてして別の側面も持っています。この場合、そのような行為を抵抗する側の 邪神が黙ってはいないということです。たとえ私が、宇宙創造神の特命を受けていたとしても、支配階級を形作った者達は体制を崩されることを好まず、どのよ うな狡猾な手を使ってでも、また取り決めを破ってでも、妨害をかけてきます。難しいのが当然なわけです。
大震災で、著書の原版はいったん瓦礫の下に入りましたが、命冥加にも助かっていました。とんでもないことが起きたことを前に、これを世に出していいものか どうか出版社の社長に懸念を申しますと、今なら手付けを放棄してとりやめてもいいとのことでした。しかし、私は世に出すことを決意しました。未到来の成り 行きを呼び込む可能性を承知したのです。以来私は、世の成り行きに責任を持つことになったのです。
阪神大震災は、世界全体の苦悩の縮図を呈していました。多大な犠牲と精神苦、経済苦が充満した反面、相互扶助の良い種の芽吹きもありました。有情に悪いも の はいっさいなく、すべて救われなくてはならないもので満ちていました。それがこの世界にあるすべての有情の実態なのです。
私にもし、決められたシナリオを変える可能性があるならば、一人残らず一匹残らず、浄土への大乗の船に乗せねばなりません。むろん、浄土は未到来の彼方に あるのでなく、ここを土台にせねばなりません。これが私の基本的考え方です。
私は「魔法」を使っていることが最近分かりました。それも西洋ではなく、東洋の魔法です。だから、何らかの規定された図形の書式に従わねばならぬといった 難しいことはありません。「兆」「脈」「境」「見立て」を自由にコンビネーションさせて、その効果をさらにフィードバックさせて魔法を強化していく方法を とります。神々の助力を仰ぐために、神話に自ら超入したところ、神話こそが私の魔法の手段となったのです。
どんな魔法か。それはバトラーも言うように、神の力にあずかることに尽きます。私の上に、神々は彼らのアイデアと力をタイムシェアリング的に落としていき ました。それを私は、○○神の雛形になったと表現しています。
そして特別な力によって作られた神話は実現可能な預言になりうることを、2000年に突如現れた人によって知りました。
それはイナンナさんと言いました。なぜこういう名前にしたかというと、結果的に嘘つきだったからです。しかも、どこからどこまでが嘘であったか不明だった ものを、刻苦勉励してようやくこうであったろうという解釈を得ることができました。しかし、私はこの人の嘘とも真ともつかぬキーワードによって魔法の力を 高め得て今があるのです。となれば、私はフィクションかもしれないこの人との共著の物語によって生かされ、現在進行形のノンフィクションである物語の中に 生きていることになります。
私は、すでに現実世界を離れているのかも知れません。私はイナンナさんと別れた直後の2002年11月21日に、いちど死に掛けました。深夜、仕事から 帰った私は、セーターを脱ごうとしている時点に心房細動による不整脈で失神し、セーターが首を絞めた状態で、どう物音を立てたか、家人が見つけてくれて、いま生存しているので す。いや、生存していることになっています。というのも、死んでいたとしても、まったく分からず往ってしまっていることでしょうし、今ある現実も、本当の ことなのかどうか不明だからです。死後、別のタイムラインに乗って生きているのに、気が付かないでいるといったことも、拙時空論からすればありえます。(何かの役割を持ってきたイナンナとの離別で、役割が取り去られたために死ぬという意味だったかも知れない。この倒れた時から約12時間後に、皇室の高円宮が心室細動で亡くなられている。このように、何かの引き換えで生きているという感じもしている)
同様に考えれば、私はもっと昔に死んでいるのかも知れません。そして、造形可能な中陰にいるとすれば、こんなこともあろうかという不思議な世界を いま生きています。それは私をけっこう映画の主人公にしてくれるような世界でした。
また、私自身、ほんとうは最初からここにいてはならない存在なのです。「鵺は鳴くなる」で書いたように、母がもし男として生まれていたなら、私はここにいなかったでしょ う。そして、世界はおそらくもっと良い時代を迎えていました。私のような粗忽者が登場せずとも良かったに違いないと思うのです。
次の話は実際にあった物語のような、本当の話です。私には若い頃から適切な死期と思っていた50歳というラインがありました。それを過ぎてから起きた、ま さに中陰世界のような幻想的な出来事が続いているのです。
第二部につづく