鳥居からかごめ歌、弥勒下生まで

以下は奥人仮説です。
鳥居考
鳥居はドルメンが原型です。ドルメンはそこが聖地であることを示す表象です。その場所でシャーマンが祈りを捧げていました。
鳥居はその名のとおり、鳥がそこに起動されずに眠っていることを示します。
鳥居は奈良時代から作られるようになり、神社建築に伴う付属祭器のようになりましたが、その地が聖地とされる証の表象でもあります。しかも、鳥がその聖地に眠るとされていたのです。
それは平安京にも受け継がれました。その神社建築の伝統が日本全国に広がったと見られます。が、もともとは畿内の聖地だけが対象になっていたわけでしょう。
古代の為政者側のシャーマンは、この聖地の上にカバラによるカゴメ結界を築き、鳥の活動を封じてきました。それとともに、太古神も封じてあるのです。太古神は、縄文時代などの先史時代を育んでいた神で、いわゆる生命系(有情)の黄金時代を築く神でありました。
その大地に、何波にも渡って邪神の侵略がありました。そして最終段階をエージェントたる日本の古代為政者が作り、以後を統治しました。
太古神らを封じておかなくては、彼らの意図する展開ができなかったのです。歴史時代とは、彼らの意図する歴史展開を見届ける証人を立ててきた時代なのです。このために口に出す言葉や、書き記す文字が編み出され、証人によって刻み付けられてきました。こうして、歴史は残されるようになったのです。
いっぽう黄金時代には、立てるべき証人は要らず、言葉というものも大容量転送でなるテレパシー通信でしたから、大地に刻まれるようなこともありませんでした。このため、黄金時代の音信は噂の中にしか存在しなくなりました。
すべてがレベルダウンさせられた密度の状態で歴史時代は開始されていると言ってもいいでしょう。それはいま言われている次元上昇とは逆巻きの節理だったと言ってもいいかも知れません。が、それに伴って、邪悪な意図が移入されたのです。
彼らは何かと言うと「大量(おおはかり)」という言葉を使います。つまり、大きな意志の計画だと言うのです。それであるなら、今や大量によって、彼らが駆逐され、太古神が復活するときがきていてもおかしくはなく、それが正当な手順となります。それを表わした歌が、かごめ歌だったのです。
日本に来た為政者階層は、習合という美徳を持っていました。それは先住民を懐柔するのに役立ち、無益な殺生を避ける手段として評価できます。このため、遺物や伝統の中に、太古の意趣を宿していたりして、民間伝承にも名残っているのです。
弥勒降臨
ではどのような鳥だったのか。鶏のように、少なくとも頭が赤い鳥です。朱雀から丹頂、鶏にいたるまでの。
釈迦が未来佛として預言した弥勒菩薩の登場する場所があります。そこを鶏頭城といい、その日まで鶏足山で待機しているのが釈迦の弟子、摩訶迦葉という構図があります。
摩訶迦葉とは、釈迦の一番弟子で、「釈迦没後に行われた「結集」から20年。彼は鶏足山と云う山の頂に立っていた。彼は世の無常を厭うているのだが、釈迦は臨終の遺言で自分の教えを守り立てることと、とある袈裟を弥勒菩薩が現れるまで保管しておくことを命じられていた」という人物で、未だに鶏足山で禅定して生きているとされており、日本では、同じく入定信仰の共通性から、空海がこれに比定されてきたわけです。
彼は「将来、弥勒が竜華三会(りゅうげさんね)を終えて合図を送ると、彼は山から出てきて釈迦の袈裟と言伝を弥勒に伝える。そして空中に飛翔すると火定(かじょう)に入って滅度するのである。弥勒の説法に会ってさえも仏教を信じようとしない者達も、さすがに生きたタイムカプセルを目の当たりにして帰依するそうである」とのこと。そして、どうやらその神話は空海を指名することになったもようで、空海もこの日ようやく晴れて、滅度することになるというわけですね。どうしてそうわかるかは、もう少しあとに載せています。
そこで、空海が異界の鶏足山たる高野山に入定するなら、異界の鶏頭城とはどこなのか、というわけです。高野山を足置き場とするなら、頭は構図的にその上方にあるはずで、鶏頭の音から、京都ではないかとか噂されているわけです。
生命の木の図は、現界の国体と並行して走る異界の国体に存在する、いわば、みたての五臓六腑図です。古来、神道や仏教はこの異界の国体護持のために活躍していたのです。これがひいては、現界の国体の健康を維持するだろうと。しかし、元の意趣が廃れれば、このシャーマニズムの原点が支えられずに、元からして崩壊します。いちおう神道だけが、秘密裏に守り抜いているようですが、もう元の意趣はほとんど残されていないでしょう。
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異界の国体に鶏が描かれている。その位置的関係として、現界のどこになるか。鶏はカゴメに閉じ込められている。生命の木の図柄がほとんど現界のメジャー祭祀霊場に照応しているとならば、閉じ込められて見えなくさせられている場がひとつ確かにあって、ダアトとされているわけです。
そこが確かに鞍馬(暗い間、見えない間)と名づけられ、重大な神が祀られています。
サナート・クマラ、大魔神、金星王、金色大使、毘沙門天、ウシトラノ金神、そして弥勒となる布陣です。弥勒は金剛界曼荼羅の大日如来の北東に位置する神ですから、ウシトラノコンシンの一形態と言えるのです。
これらは異界における構図です。現界の鞍馬が弥勒登場の地というわけではありません。表象として鞍馬があるということです。しかし、信仰は表象を対象になされるので、これでいいのです。
日本の黎明期黄金時代の国土は太古神の意志を受けて、鳥が守護していました。
太古神復活とともに、封じられていた鳥が、再び出てくることを、かごめ歌は表わしています。
鶴亀すべり鳥を出す
「鶴と亀がすべった」の「すべる」とは、「統べる」「渾る」の意味であり、統一される、渾然として一体となることを言います。このため、掛け軸などには、鶴と亀の図柄を渾然として描いたわけです。一幅の絵画の中に並存すること、それが吉祥と考えられたゆえにです。それは、来るべき日のシミュレーション的な行為と言っていいでしょう。同様に、鶴と亀のシンボルを持つ者のカップリングもこれを招来するシミュレーションでありました。特に、神話の雛形として役柄を得た者同士は、それ相当の影響力を持っています。
新神話は、その力の発現時点が、この鶴亀すべることにあったと言えます。お互いが偶然とも見える必然性に導かれるようにして出会ったのです。一人は御伽草子の浦の嶋子、もう一人は乙姫として出会い、それぞれが鶴と亀を担いました。こうして、新神話に大きな牽引力を与えることができたのです。
そして昨年(2008年)、この協力から生まれた子神の中から、弥勒が誕生しました。高野山において、亀の雛形たる撮影者のカメラに、鶴の絵のすぐ上に亀甲紋型オーブが写り、亀の雛形の夢の中に空海らしき僧が金るの袈裟らしき光りものを持って現れ、「まもなくお生まれになる」との言葉を授けられたとのこと。その一連の事象の解読において、弥勒下生なるとの解釈が成り立ちました。 
この年、アオウミガメの産卵が過去最多となったのも、絆の強さの成果の現界的現われとみられます。国津神としての子等がたくさん生まれて、六角オーブとしてカメラに収まり続けるという現象も起きています。これは国津神の続々たる復活であり新生であります。次代の地球は彼らによって支えられることでしょう。黄金時代のプランを彼らに教えておかねば、と気をもむのは、親馬鹿というものでしようか。
弥勒は太古の神々の復活の一角として下生します。彼は神ですから、ただ一人物だけに顕現するわけではありません。もしかすると世界人口の何割にも渡るかも知れません。その判別法は、地球のこと、環境のことを考えて行動しているかどうかです。該当者はみな弥勒の眷属です。それゆえ、弥勒思潮として大衆運動を伴うかもしれません。新神話では、弥勒は草の根運動を伴うとしています。またその総体を言うとしています。
そして、鳥は最強の守護神獣として、魑魅魍魎に化そうとする邪神とその配下および構築物のことごとくを駆逐殲滅することになります。
地球は太古にあった姿をさらにレベルアップして現れ出てくることでしょう。黄金時代がやってきます。