琵琶湖周航の歌8・・・徐福、神仙境創造に着手す

琵琶湖とその周辺に、どうして神仙の雰囲気が漂っているのか。その源流を仮説してみた。
すでに前記事で推理したように、琵琶湖がダム湖であるとした場合の話である。
ではさっそく、過去の時代にズームインだ。
秦の時代には知られていた蓬莱島伝説。徐福はその神仙境の不老不死伝説を始皇帝に知らせ、不死の薬草を手に入れてくるための大船団と乗員を用意させた。渤海にあるという三神山。そこに住む仙人を薬草と共に連れ戻るなら、自らの天下も恒久なりと踏んだ始皇帝の稚い算段であったかもしれない。
その徐福が海を渡り伝説の東を目指し、当時にあっては蛮夷の地とされた日本に至る。
彼の名残は多くの場所で見られている。それは彼が日本の地形に特長を見つけようとしたからに他ならない。
時、紀元前200年頃、日本が弥生時代とされていた頃のことだ。
そこで徐福は、日本の津々浦々を歩いてみて、人々の穏やかさには接するものの、神仙と呼べるような状態にないことを見て取った。
そこで彼は気づく。この島のさらに東に蓬莱島はあるのではなく、この土地に、にわかには目視できないが、重なって存在しているものであることを。それを人々は見出せないでいるだけだと。
もし、蓬莱島をこの地に湧出させることができたなら、仙人にも会え、請うて薬草も手に入れ、始皇帝のもとに戻るつもりであったかも知れない。
彼はユダヤ人だったが、タオの思想には深く感銘を受けていて、彼の知るカバラの神秘思想と統合すれば、何とかなると見たのではなかったか。
カバラだけでなく、東洋魔法も応用される。「兆、脈、境、見立」の魔力強化サイクルのスパイラルによって、彼らの存在する時空間それ自体を次元上昇(アセンション)させようと図ったのだ。
彼は、千人にも及ぶ大人口を連れて渡ったには理由がある。人口過疎の日本にあって、機動力統率力に物を言わせ、大豪族から大王をうかがうくらいにはなろうとしたのだ。彼は、後の秦氏の祖であり、当時から多くの人の信望を集め、少なくとも大豪族になっていたことであろう。
彼の目的はただ日本を神仙に変貌させることだった。そのためには、自分ひとりの意志の力だけでは足りない。在住の人々のことごとくが、住まう環境に神仙の雰囲気を体感できなくてはならない。
彼は、持てる知識を駆使して、人々を集めて巨大な構築物作りをした。土木工事については、万里の長城や始皇帝の巨大地下施設造りのノウハウくらいは持っていたから、造作もない。
まず、神々の構図を地形に彫り込む。
当時の琵琶湖は今よりはるかに小さかった。このため、マウンド造りには好適だったに加え、水を満たした場合の湖の形を、キネレト(竪琴)型に設計して、当時主体的人口を形成していたユダヤ人に見立てられ易くする企てがなされた。すなわち、地形の削るべきところを削り取り、その土砂を運び込むべきところに盛り土してマウンドを築いたのだ。
後世の風流人は庭園の中に神仙境を描き切ろうとした。それはいわば盆栽のようなミニチュア化手法である。現実にはならない思いを箱庭に込めてする、理想の投射である。理想郷を偲ぶ心の現われである。
だが、その故事はさほど遠い昔ではない頃の、広大な大地に為された造作の模倣である可能性のあることも考え合わせるべきであろう。
徐福は琵琶湖周辺に、神仙の構図を置こうとした。三上山は、もとは三神山であり、蓬莱、方丈、えい州の三つの神仙をこの地に見立てるとの思いから作り上げられたモニュメントであった。
次に蓬莱山のモデルを、後世の日本庭園が造作したように、琵琶湖の中に作ろうとした。
まず沖島がそうである。池の中に弁天の祠が置かれるように、沖島にも弁天の社が置かれ、その中の奥津磐座を蓬莱嶽とした。また、沖島を真東に展望する山を蓬莱山として、春分秋分の初日の出のラインを、蓬莱神仙境に至る道としたのである。
古代より蓬莱山登山は神仙を体感すべく奨励されていたことだろう。神々と人が触れ合う場。上空を見れば、巨大な神々の営みが想像できるようでなくてはならない。光が風が、生きているひとりひとりにとって、意義深くなくてはならない。生きていることがありがたいと心の底から思える世界造りが徐福の目標だった。