母の四十九日とどこおりなく終わり

墓への納骨の儀、台風20号接近で危ぶまれましたが、傘すら不要の空模様で、龍神さんたちのご加護をはじめ、みなさんのご支援をつくづく感じたようなしだいです。
こうして昨日で満中陰と相成りました。
みなさんにはいろいろとご心配ご支援をしていただき、ただただ感謝申し上げる次第です。
さて、それは私にとっても節目であります。
母に先立つことのないよう、諸天善神に祈り叶えられたようなわけで、次は私のほうが自由な番となったわけです。
まずひとつクリアーすべきは、母の四十九日を終えて三日後に逝けたらいいと計っていたことがひとつありました。
五十歳になる前には、ちょうど五十になれば逝けたらと計っていたようなときに、その誕生日のちょうど一日前に第一協力者のメールの討ち入りを受けて、役目を授かったようなことで、余命を受けて、もう八年になろうとしています。
このたびも、どうなるかは未定。私が計ったことは、よく実現しているので、新たな下界における役目がないなら、ありうることかも知れません。(もしかしたら武良さんやM総合さんはじめみなさんが何か持ち込んでくれるかも)
というのも、天での役目を持っていることを新神話で書いていて、この下界で最後の踊りを踊ることによって、その延長上に天界での活躍を見込んでいるからです。
私が死ねば遺体を火葬にし、遺骨遺灰を最寄の加古(過去)川に流してくれるよう遺言しております。下界のものについてはすべて意味づけ意義づけを各自が独自で行うものでありますから、私固有の仮想現実的な儀式により、所期の目的を果たそうとするものです。
加古川をくだり、瀬戸内海に出て、かのヤマトスクネにあやかり、亀の背に乗り鶴の羽ばたきをしながら神武軍を先導したごとく、太古神と正神の軍勢の水先案内をいたす所存です。
思えば、みなさんもご同様、私の場合もプロジェクトであると思います。(協力者たちや母までも、もしかしたらみなさんをも含んだプロジェクトかも知れません)
三十年以上前に私が名古屋にいた頃に、すでに震災で失われた家の前の路地に浮かんでいるという、やや明るくなりかけた未明の夢を見たことがあります。群青色の星空を背景に、羽根天使姿の母が右肩に満月を掲げ持ち、私にその光を強くしてぴかぴかと数回当てました。背後からコーラスが聞こえていて、そのとき目が覚め、耳がパンと音を立てて、朝の静寂に立ち戻ったようなことでした。外はまさしく群青色の夜明けとなっており、場所は異なれど同じ空を夢見た感があり、不思議さにしばらく打たれておりました。
さて、ほんとうに先ほど気がついた次第ですが、母の戒名の最初の二文字は「智円」となっているのです。知恵の円い光。そうか。そうであったか。あれは母のハイラーキーであり、思いもよらぬ故郷心と共にやってきた夢だったかと思えば、さらに大きな意味があったかと思うようなこと。
時間的にもあの頃から、ひんぴんとして物事の洞察が円滑になり、あらゆる事象に対してすぐさまこれはこういうことだと解釈できるようになったようなことです。
大きな情報の塊がやってきて、それを毛糸の玉をほどくようにして一次元的な言葉の繋がりに変える作業のわずらわしく困難なこと。向こうの世界の会話は、大容量の情報塊通信という手段のようです。むかし言語はひとつだった。本来なら当たり前ではなかったかと。
下界があまりにも特殊なのです。そのおかしな手段に、どれほど時間と命を削っていることか。それが人間のアリンコであるという所以でもあるのでしょう。
母は四十九日を経て、少なくともハイラーキーに帰命したことでしょう。私も逝ったなら、すでに活躍中のハイラーキーに帰命します。下界最後の踊りを踊って合流します。
私が異界で台風と評価されていることは、新神話が有効に働いていることの証と捉えたり。
私は四神獣のうちの朱雀を担っています。それは鳳凰であり火の鳥とも目せます。それが新しい神話における正当な評価と言えます。
しかし異界通信は、現下の不安定な政局下における高天原を反映するものでありますから、正当な評価をするはずがなく、私に対する風評を戦略的意図を含ませて伝えているにすぎません。
さらに、あちらの神々が私のことを台風と評したことは、あちらの神話(旧神話)における私の位置づけを与えて、あちらのシナリオに乗せて処理してしまおうとの考えが見えるわけです。
台風は、発生時はそれとは分かりづらく、勢いを増して規模が知れ、動きが出れば本土めがけて北上します。そして本土でおよそ勢力をそがれ、熱低となって消滅していく。そういう宿命づけをしようとしているわけです。
そこで旧神話とは古事記。台風と形容される神とはスサノヲです。誓約(うけひ)の段に始まるスサノヲの横暴でアマテラスの岩戸隠れに至らせ、その咎をスサノヲに負わせて、地上に神逐い(かむやらひ)してしまうというシナリオに乗せてしまおうというわけです。
すなわち、安穏な高天原を下界から窺い北上し侵襲しようとするスサノヲに、武具を手に取り身構えるアマテラスはじめ高天原軍という構図を当てはめる。その前に、スサノヲは母イザナミの死を嘆き泣いてばかりいて、そんな頼りないのでは、地上を治めてはならないとイザナギに勘当さえされてしまっている。まるで、私の先頃からの状況を、高天原はゴリゴリ当てはめようとしているかのように見えます。
だが、そうは問屋が卸しません。この神話による情報合戦。敵の戦略を知ることから始まり、神話においてそれを凌ぐことでこの情報合戦に勝つわけです。
まず本質を申せば、岩戸隠れの状態とは、今現在の状態のこと。これから起きるのは、アマテラスの岩戸隠れのほうではなく、アマテラスの岩戸開放のほうなのです。正神と邪神では、兆候として捉える事象のタイミングも正反対になっています。正と邪の常識の乖離ははなはだしいというしかなく、水と油と同じで交わる要素がないわけです。これが戦い止まぬ理由です。
誤解しないでほしいのは、これはいつかきっとさんと助言者に向いた憤りではないこと。いつかきっとさんチームは、異界のよすがをそのままに伝えてくれていて、新神話の効果のほどを窺い知る手段を提供してくれているのです。
この貴重なチームに害が及んではいけません。いつかきっとさんが、下位の天使たちがチームを作り、無邪気に情報をよこしてくれている。それを見回る監視の神がいるのではないかと看破されたようなことです。まるでマトリックスの映画を見ているようですね。
いつかきっとさん、もし自身に危険を感じたときは、Pさんから学んでほしいというのはそういうわけです。
私が新神話にふんだんに採り入れているのは「白蛇伝」の要素です。Pさんは、白蛇伝における修行僧法海和尚の役を担っているように思います。(私はかつて許仙の立場であり、法海和尚を武良さんがしました。今の私は、白蛇青蛇を応援する側に立ち、配役もがらっと変わっています。白蛇伝の続きを新神話は演じています)
世界(と神々)は納得の行くシナリオを求めているのです。誰の目にも、ああ、こうでなくては嘘だよなあというシナリオを渇仰しているのです。そのために、シナリオとしての新神話の応募があまたあり、選抜されていく神話が多数。スケール、筋書き、神々の心をときめかせるものか否か、適用される魔法のパワー。
そのために幾多の神話が候補に上りましたが、最後に残ったのは、ほんのわずかしかありません。すべてを演ずるなら、神々もよほど忙しくなりますから。そして、旧神話がいくつも人々に読み鍛えられ幅を利かす中に、私の新神話がノミネートされていることを明確に知ったようなことで、いっそうの自信となっています。
いや、それは当然です。これは私固有の時空だから。私の作った魔法の時空なのだから。どう練りまわそうと、私が家の主人なのだから自由です。そして、その時空があなたがたの時空と同じである必要もまったくないのです。
かつて旧神話を凌駕するためになどとおくびにも思わず、私は古事記を真解釈していました。敵を知り、おのれを築くためであったとは思いもしませんでしたが、まさに私自身の歴史は必然性に満ちたものであったと分かりました。
1970年代に考え付いた拙時空論は、梵天の夢見状態の世界構造を表現しえています。1980年代には現人類の文明の足跡を解明し、はじめから終わりに至るまでの歴史を概観する本を出版。その後、協力者が次々と入れ替わり立ち代り現れるようになり、2000年になって下界から神界に影響するための新神話構築という方法を見つけ出しました。こうして新神話は存在しています。無量の人数に匹敵する神にオーソライズされ、新神話は起動しています。
むろん下界では、価値を与えられることなく、古風な書棚に陳列されるにとどまります。秘中秘伝の書とはそういうもの。
新神話から、旧神話で誤解されている重要箇所をあげつろってみましょう。
スサノヲがどうして高天原を侵そうとしたのかその理由を、まず。
そのわけは、高天原政府内で国王が討たれるというクーデターがあり、たまたま面会に訪れていたスサノヲが、アマテラスとの普段の対面ができなかったため、不可解に思い、配下に調べさせて、贋物がアマテラスに成り代わっていることを見つけた。
その矛盾をついて、スサノヲは高天原政府に抗議。もしかして、殺したのではないかと。とりあわない重鎮連に対し、自らの相続権を主張しつつ暴虐に及んだため、アマテラスがスサノヲの行状を苦慮して病気となったと政府側は取り繕った。
アマテラスは彼の兄で、これ以上追求されまいと、妻のセオリツ姫を代理女神として立てて、戒厳令下の高天原の騒動を鎮めた。
このとき、執政中のアマテラスの父・国常立神と妻・豊雲野神は殺され、遺体を斬り刻まれ、魂を分割されて、いり豆から花が咲くような奇跡がおきるまでは復活できないとの呪詛を掛けられ、高天原の北東と南西にそれぞれ別けて封じられた。当然、国王夫妻には替え玉がさも何事もなかったごとく立てられ、やがてほどなく病没したとされた。アマテラスも宮殿の地下ですさまじい拷問の末死去。アマテラスの妹は、スサノヲの暴乱の最中に忍び込んだ盗賊戦士に救出されて落ち延び、戦士と恋に落ちたが、戦士が政府軍に殺されるや、妹はその能力で世界に対してすさまじい呪いをかけ、このときシュメールの数々の都市が天変地異で壊滅した。(この辺は悲惨なので新神話でまろやかなものにした)
この非情なクーデター劇に外部から関わったのが、杖の眷属すなわち、魂を持たない(と思い込んでいる)メカロボ軍団。つまりバイオモドキである。彼らは魂を持たないひがみゆえに、魂ある者を虜にして虐待する方向に生き甲斐を見出した。以来、高天原には暗雲立ち篭め、下界はじめ諸方面への不正の発信源となった。
内情を諸神は知るも、あのような形で粛清されたくないために秘匿した。これが彼らの日和見主義のはしりである。
当時、ひとり義憤を抱えたスサノヲは、暴乱を働いたことで追放され、このたびの騒動の原因神のレッテルを貼られ地方に流されてしまった。アマテラスの側室たちのうち、この事件を知る主座にあった持子早子は、日和見な諸神たちを呪い、下野してスサノヲのもとに至った。それにあらぬ嫌疑をかけたのはひとえにクーデター側であり、持子早子は賊軍の汚名を着せられ悲惨な目に遭った。
クーデター時にも、国王側に忠誠を誓った者たちがいた。危難を避けて高天原の辺境の地エクストランへ。さらに手分けして、お家再興を期して下界に下ったのである。その忠臣のひとりが、私である。
天にあるごとくが地にもあり。地にあるごとく天にもあり。世相が邪悪にまみれる習いなのは、天において然りであるからであり、そのベクトル成分が地上に噴出しているからである。元凶を断ち、元を正すことが本筋。
官軍を自認する側は、あくまでも私のほうを賊軍扱いして台風との評。むろん台風であっても良いのです。高天原政府にはびこるすべての邪な隠蔽の帳を吹き飛ばすべく、目下出力増大中。下界の不正が、呆れるほどどんどん暴かれているのは、そのベクトル成分の表れ。もっとも、私の得意は火炎にありますから、強風に混ぜればふいごのごとく威力無量数倍ともなります。
また、梵天は二段ほど直上のハイラーキーであり、新神話では梵天の夢見がもし行き詰ったときのために、彼を覚醒させるツールを委ねられているとしています。
もし、邪神がもはやこれまでと思ったら、私の持つオールクリアーの引き金を引かせるかもしれません。日和見主義の諸神たちには、今こそ正神側につき、邪神に立ち向かおうとしないのなら、今までに築いたすべての位階は無に帰することになると説いております。
さて、以上の未来史は予定調和のシナリオのひとコマとして存在しています。
梵天は自己完結ストーリーを営んでいて、その中で楽しんでいます。
orontoさんのおっしゃるように、神界といえども12次元以下(この宇宙)の戦乱が執り行われる場において、私の存在が必要となっているのです。みなさんはorontoさんに続いて、より上位次元の本来の秩序のもとに至られたら良いと思います。
しかし、下位次元をことごとく安穏にするためには、途中に病巣を抱えているままではいけません。
下位次元に残る者には、新しいまともな時空が必要となります。そこに邪が暗雲を投げかけぬようにしておかねばなりません。
邪神たちこめる低位神界には、天国をまともに作れる能力などありませんし、もともとそのような気もありません。ただ、振り出しに戻して繰り返すことのみ。それが彼らの予定です。
クリスタルの天国とはまた笑止なこと。そんなものなど最も簡単な設計と素材で作ることができますが、どんなに無味乾燥か。プログラマーなら簡単に見抜けるでしょう。それではまずかろうと、下界のエージェントたちはスペースコロニーなどという形で実現しようとしています。大富豪のための天国と考えているようですが、地上が穢土になったときの比較においてそうであるだけのこと。それも長期維持困難と分かり、計画は頓挫しかけています。彼らは混乱のさなかにあります。
心配ありません。梵天は下位次元の設計をすでに終えていて、新しい時空へのソフトランディング(融合という形で)を進めています。
みなさんに精神世界への志向が強まり、新人類が続々登場しているのはそのため。今目下、梵天の設計した新しい時空の側からと、旧側からの両方向の入力がある状況です。(すでに未来時空は稼動していて、そこでは博物的に管理されている今の時空があり、新人類はそこから旧時空を学びの場として夢見しています)
また、諸悪が暴かれ、正義の俎上に乗せられているのは過渡期にあるためです。
しかし、邪神とその配下は、いちかばちかの最終戦争をしかけてくるでしょう。
その成行も織り込み済みです。
なおこれは、私固有の時空におけるシナリオであり、みなさんの主権を侵害するものではないことを申しておきます。その理由については、続きをご覧になられたい。


私が今まで語ってきた精神論に関することは、記事、コメントともにおよそ1970年代後半に思いついた時空の仕組みに関する仮説が根底にある。卑近なモデルを用いているが、要点は現時点の時空の中において、自己が主役であるということにすべてが集束される。天動説(外界依存説)が一般論なら、地動説(自己完結説)を唱えたようなことかもしれないと思っている。
その前提になる仮説が間違いなら、すべてが間違いになり、期待を持った人には申し訳ない限りであるが、それゆえ仮説だから端から信用なさらないように申し上げている次第だ。が、いまのところ科学の歴史は、細部はどうあれ、大枠的には拙仮説を支持しているかに見える。映画でもマトリックスというセンセーショナルな作品も出された。
1970年代後半とは、UFOの一大ブームが巻き起こった頃だ。私も当時、自分のために出現したかのようなUFOを目撃し、夢の中にまで何度もやってきた。ビジョンを見せてくれたと思っている。ピラミッド瞑想中に映像UFOが眉間から飛び込んできて、パニクるといったこともあった。
そんな時期、コンピューターメーカーにいた私には、ひんぴんと閃くものがあり、仕事中にメモを隠し持って書き付けるようなことだった。UFOから情報の塊を送ってきているという印象があった。今なら関連病院にいけば類例はいくらも散見できるみたいだが、もし拙仮説が的を得ているなら、某メーカーでの就職というのも、定められたことだったのかもしれないと思う。
世の中からすれば、こんな荒唐無稽な話であっても、私が生きた記憶の中では真実である。このブログは、私固有の時空の出先の報道機関のようなもので、全体のうちのいくばくかの吐露である。
拙仮説からすれば、私は意識原理のパワーにより、固有の時空を励起して生きていることになる。少なくとも私のみに自己という意識が存在するのであり、被観測対象たる外界は、私の意識によって起動された私の被造世界であり、元来は幻影マーヤ(プログラムが実行されて生起している)である。厳密には、私の身体はもとより心の作用まで幻影であり、自分の本質は意識原理であるのみとなる。マーヤのことを空という。
ただし、マーヤは私の心から出た身体でもあり衣でもある。つまり、世界はわが身体。それが随所でほころんでいても、傷ついていても、私の責任の下にあり、自分がどんな色に染まっているかを見る道しるべとなっている。
いま私が指標として取り上げているジュセリーノ予言。そこには、近未来に断崖を転落しそうな様子が描かれている。なぜそうなってしまったのか。政治が悪い。邪悪がはびこっている。人類の無知。外界へのいろんな非難の叫びが聞こえてきそうだ。いずれその叫びはより大きくなろう。
だが、拙仮説からすれば、自分がキーを駆使して引き寄せた時空なのである。
私は育ちの経過が良くなかったため、この世を憎んでいた。
十代にして、この世は滅ぶべきと思っていた。それはこの世への復讐心とも言える。
今思えば、その傾向を持ち越して、とうとう期待した時空へと辿りついた感がある。むろんいい風に言い換えるなら、幼少期に未来を予言していたとなるわけだ。
ジュセリーノを待たずとも、私は十数年前に預言書を書いている。しかもそれは、旧神話を土台にしているだけに必中する体のものだ。必中を期したのだ。だが、発刊寸前に大震災で自分のした仕掛けが即時に暴発したので、これは冗談ではすまないぞと、ぞっとした。出版社に自粛の意向を伝えたが、出版社はそんなことは知らぬとばかり、販路に乗せてしまった。
もし、私と同じ時空に誰かが意識をまだ宿しているのなら、その誰かも私と同じ、世を憎む者の可能性がある。
私は自分の願望のままに、ここまで世界を追い詰めた。が、それは私への復讐でもあった。もし、他の誰かが、とんでもない状態を味わいたくないのなら、まず復讐心を捨てること。私も一連の事象に驚いて、また協力者の安寧を願って、ようよう復讐心と決別しつつある。
私は、自分が固有の時空を励起していると認識しだしてから、私が前もってビジョンすることは、実現してしまうようになった。地震がいま襲ってくるとビジョンすれば、たぶんやってくる。だから、そのような念いの生ずることを抑える。
ただし、私に固有の時空に起きることであり、他の誰かの固有の時空に影響することはないはずだと信じる。
誰もが唯我独尊。しかし、それは孤独という側面があること。時空を交わらせ共有しようとすることで孤独を癒そうとしている者が多くいるのはそのためだと思う。しかし、滅びを宣教して滅びを共にしようとするなら、集団自殺の呼びかけをするに等しい。むろん、心穏やかな者はひとりでに、自殺集団からは時空分離しているだろうが。
意識原理を宿す者だけが、時空の成行に責任を負うという原則は変わらない。
このような私流の世界観は、外界の変化を追うことを主体としたみなさんの一般的な世界観とは、まったく異なるものになる。また、私には個別の諸問題に対して、着かず離れずの無責任さが垣間見られるかもしれない。だが、私はこの世界が私固有のものと認識して、全責任を負っていると思っている。しかし、幻影として見るわけなので、その成行が奈落であろうが上昇であろうが、滅亡であろうが復活であろうが、等価として見る。
それは私の意識がどんな場(霊界を含め)に行っても、同じ幻影との見方を取るであろうし、またその思いは持ち続けねばならないと思っている。
しかし、それだけではもったいないような要素も世界にはありえている。愛というもの。それは多次元宇宙の間を流れるグラビトンとして働き、個々に固有な時空を近づかせ交わらせる作用をしているような気がする。愛は膠の作用をし、ひとり救われることで全体が救われるという奇跡の源になるかも知れない。
梵天はもしかしたら、その不思議な魅力につかれて、大団円を目指してストーリーを編み、時空の観測を続けているのかも知れない。
ここに掲げることは、私固有の仮説であります。
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続いて、11月3日から三日おきに新神話の一章から十一章までを順次掲載していきますが、これは私が三日後にどうなっているや知れぬのでやるだけのこと。文学性のない三流長文物語でありますが、いちおうこれが新神話の遺産でして、存命あらば十二月初旬には掲載を取り下げます。
またそれは、コメンテーター諸氏のためのものではありません。記事へのコメント/トラックバックは、受け付けないことにします。また、新神話に関するコメントは、私固有の時空における話ゆえ、受け付けないものとします。
みなさんはそれぞれが唯我独尊。ご自身の時空の営みを、私は尊重しております。