私の時空仮説について

私が今まで語ってきた精神論に関することは、記事、コメントともにおよそ1970年代後半に思いついた時空の仕組みに関する仮説が根底にある。卑近なモデルを用いているが、要点は現時点の時空の中において、自己が主役であるということにすべてが集束される。天動説(外界依存説)が一般論なら、地動説(自己完結説)を唱えたようなことかもしれないと思っている。
その前提になる仮説が間違いなら、すべてが間違いになり、期待を持った人には申し訳ない限りであるが、それゆえ仮説だから端から信用なさらないように申し上げている次第だ。が、いまのところ科学の歴史は、細部はどうあれ、大枠的には拙仮説を支持しているかに見える。映画でもマトリックスというセンセーショナルな作品も出された。
1970年代後半とは、UFOの一大ブームが巻き起こった頃だ。私も当時、自分のために出現したかのようなUFOを目撃し、夢の中にまで何度もやってきた。ビジョンを見せてくれたと思っている。ピラミッド瞑想中にUFOが眉間から飛び込んできて、パニクるといったこともあった。
そんな時期、あるコンピューターメーカーにいた私には、ひんぴんと閃くものがあり、仕事中にメモを隠し持って書き付けるようなことだった。UFOから情報の塊を送ってきているという印象があった。今なら関連病院にいけば類例はいくらも散見できるみたいだが、もし拙仮説が的を得ているなら、某メーカーでの就職というのも、定められたことだったのかもしれないと思う。
世の中からすれば、こんな荒唐無稽な話であっても、私が生きた記憶の中では真実である。このブログは、私固有の時空の出先の報道機関のようなもので、全体のいくばくかを提示している。
拙仮説からすれば、私は意識原理のパワーにより、固有の時空を励起して生きていることになる。少なくとも私のみに自己という意識が存在するのであり、被観測対象たる外界は、私の意識によって起動された私の被造世界であり、元来は幻影マーヤ(プログラムが実行されて生起している)である。厳密には、私の身体はもとより心の作用まで幻影であり、自分の本質は意識原理であるのみとなる。マーヤのことを空という。
ただし、マーヤは私の心から出た身体でもあり衣でもある。つまり、世界はわが身体なのだ。それが随所でほころんでいても、傷ついていても、私の責任の下にあり、自分がどんな色に染まっているかを見る道しるべとなっている。
このような私流の世界観は、外界の変化を追うことを主体としたみなさんの一般的な世界観とは、まったく異なるものになろう。また、私には個別の諸問題に対して、着かず離れずの無責任さが垣間見られるかもしれない。だが、私はこの世界が私固有のものと認識して、全責任を負っていると思っている。しかし、幻影として見るわけなので、その成行が奈落であろうが上昇であろうが、滅亡であろうが復活であろうが、等価として見ている。
それは私の意識がどんな場(霊界を含め)に行っても、同じ幻影との見方を取るであろうし、またその思いは持ち続けねばならないと思っている。
しかし、それだけではもったいないような要素も世界にはありえている。愛というものだ。それは多次元宇宙の間を流れるグラビトンとして働き、個々に固有な時空を近づかせ交わらせる作用をしているようである。おそらく愛は膠の作用をし、ひとり救われることで全体が救われるという奇跡の源になると思われる。
梵天はもしかしたら、その不思議な魅力につかれて、なにやら大団円を目指して時空の観測を続けているような気がする。
いま私が指標として取り上げているジュセリーノ予言。そこには、近未来に断崖を転落しそうな様子が描かれている。なぜそうなってしまったのか。政治が悪い。邪悪がはびこっている。人類の無知。外界へのいろんな非難の叫びが聞こえてきそうだ。いずれその叫びはより大きくなろう。
だが、拙仮説からすれば、自分がキーを発して引き寄せた時空なのである。
私は育ちの経過が良くなかったため、この世を憎んでいた。
十代にして、この世は滅ぶべきと思っていた。それはこの世への復讐心とも言える。
今思えば、その傾向を持ち越して、とうとう期待した時空へと辿りついた感がある。むろんいい風に言い換えるなら、幼少期に未来を予言していたとなるわけだが。
ジュセリーノを待たずとも、私は十数年前に預言書を書いている。しかもそれは、旧神話を土台にしているだけに必中する体のものだ。必中を期したのだ。だが、発刊寸前に大震災で自分のした仕掛けが即時に暴発したので、これは冗談ではすまないぞと、ぞっとした。出版社に自粛の意向を伝えたが、出版社はそんなことは知らぬとばかり、販路に乗せてしまった。
もしも、私と同じ時空に誰かが意識をまだ宿しているのなら、その誰かも私と同じ、世を憎む者の可能性がある。
私は自分の願望のままに、ここまで世界を追い詰めた。が、それは私への復讐でもあった。もし、他の誰かが、とんでもない状態を味わいたくないのなら、まず復讐心を捨てることだ。私も一連の事象に驚いて、また協力者の安寧を願って、ようよう復讐心と決別しつつある。
私は、自分が固有の時空を励起していると認識しだしてから、私が前もってビジョンすることは、実現してしまうようになった。地震がいま襲ってくるとビジョンすれば、たぶんやってくる。だから、そのような念いの生ずることを抑えている。
いま巨大地震がひとつでも日本に起きれば、世界経済がもっか動揺しているだけに、世界にとって決していい結果とならないだろう。
ただし、地震が来ても私に固有の時空に起きることであり、他の誰かの固有の時空に影響することはないはずのものだ。善良な者の被災するさまを目撃することはあっても、それはダミーだと心得て冷淡でいる。真に意識を宿す者のみが、心の巻いた種の責任を身を以て体験するはずであるから。
誰もが唯我独尊。しかし、それは孤独という側面があること。時空を交わらせ共有しようとすることで孤独を癒そうとしている者が多くいるのはそのためだ。しかし、滅びを宣教して滅びを共にしようとするなら、集団自殺の呼びかけをするに等しい。むろん、心穏やかな者はひとりでに、自殺集団からは時空分離しているだろうが。
意識原理を宿す者だけが、時空の成行に責任を負うという原則は変わらない。
ここに掲げることはまったくの仮説であります。

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