講釈・・・理想と現実のギャップがもたらす破局

人はどうして幸福を追求するようになっているのか。
幸福の対象が外にあると思い込んだから、自分の中にあることも気付かなくなったという説話がある。
そして放蕩して疲れ果てて、最後には導師の示唆でようやく気がつくという話だった。
ここで話をしていきたいのは、内面に向かえといった話ではない。
人は、常に幸福であることを願っている。
これは誰にも曲げることのできない真理だということ。
この理由にまつわる話を、私の仮説をもとにしてみた上で、現在の危機的状況の意味を考えてみたい。(赤記は心のノイズゆえ二度読みしたときに読み足されたい
幸福の中味はそもそも何であったか。心理学などを駆使して、いろいろと分析していかなくてはならないところだが、
もし新神話から引かせてもらうなら、意識の本来の姿は純粋無垢で、観測しているうちでは純粋叡智に浴しているときがいちばんであったから、その記憶を模索しているわけだと思う。私はこれが人が本能的に幸せを志向する原因だと思う。(その記憶がどこかに強く残っている人もいて、個人差なんだろうが、現実にはそれを見出すことができないと思い込んで、仏門に入ってしまったりする。まあ、それに対する答えもいずれ出すことになるが、今回のテーマではないので割愛する)
原初のとき、彼には何のストレスもなかった。理想と観測的現実との乖離は一切なかった。ただ、全知である純粋叡智に浸っているだけで、至福と万象の素の精髄に触れ、あらゆる理解が至福としてそこにあったと推測される。(私も幼時には三昧によく浸ったが、その世界の味は現実の何物にも引き比べられなかった。おそらく原初に近い位置に入り込んだのかと思う。あの霊妙な旋律はクラッシックに似てはいたが、この世のどこにも存在しなかった
心が動き始めたのはいつのことだったか。水平面に波が立ち、屈折によって色が生じてくると、彼はつい面白そうな現象と思うようになり、その現象に惹かれていった。ほんの些細なストレスとともに、意識行為の遅延がそこから始まった。これが、それ以降の万象の展開の始まりとなる「ゆらぎ」である。
要は、その不思議な至福を「理解しようとしたとき」に波が立ち、ゆらぎは起きていることだ。理解していく過程と筋道が、彼にとって必要となった。(思えば、理解など必要ないことだった。知恵の木の実を食べたとはこのことではないのか。ただ、感得される世界の良さだけを愛でていれば、幸福だったはずではなかったか。その三昧境は分析しようとすると逃げていった。右脳の働きを左脳が阻害するようになったと喩えてもいい。大人になるとは、そういうものだったと後に気付いた。これは果たして進化だったのか?
筋道は道だから、移動という中に時間の観念が生まれる。梵の全系の展開は時間の経過の中で行われることとなった。
展開は、ちょうど「如意の珠」に、分析の光を当てて観測するようなやり方だ。(如意珠とする理由は、現れること、考え付くことの全部がその中にプログラムとして入っているからだ。ホログラムの塊と言うべきかも知れない)
ここにプロセッサー的な要素が生じたことになる。コンピューターがシミュレートモデルとしては相応しくなるわけである。
さて、ではいちばん時間的な末端(最先端)はどこになるかと言うと、今あなたや私の心の中で営まれている、ほんの些細な心の動きや認識のひとコマがその場所だ。(何段階もの多重夢の末に今がある
外界はこんなふうだったという記憶の連合の中にいて、それが保証してくれる因果の基盤に立って、自分の時間的位置を確認し、自分の思いを新しく構築して、記憶に組み入れて、自らの経験としている最中にあるのだ。(記憶領域が完全に欠損すれば、彼は新たな観測の時空に立つことになる。記憶喪失も、死も然りである)
記憶の中には、もしかしたら原初の部分も潜んでいるかも知れない。しかし、そこが起動される時間は少なくて、もしかすると熟睡している最中にこそ、それが起動していたりするかも知れない。記憶の受け渡しがないから、どんなことになっているかが分からないだけだ。(睡眠がとれなくなれば、人はなぜ発狂するか。だいじな時間が、別の意識活動のために、割り当てられていると考えたほうが妥当だろう。)
人生の数分の一を占める睡眠は、どんな動物の意識にも認められている特権だ。
知る者とてない元の自分がそれほど近くにあっても、大切に思う者はどこにもいない。
(無知の科学の下では・・いずれ人は・・ロボットになるか発狂させられる)
然るに現代は、睡眠の量を減らす方向に傾倒し(起きていても大脳の数%しか使っていないとか理由付けして)、未だかつてないストレスを個々の意識に対して掛けている。それは増強されることこそあれ、減少される方向にはない。
ストレスとは、理想(幸福)と現実のギャップから生産される。理想家であればあるほど、この世との折り合い方がだいじになるが、それを容易にさせようとしないのも今の社会だ。
おそらく陰謀論者なら、人間の脳を策謀的にロボトミーしようとしていると言うだろう。
だが、うまくできたもので、人はそうなる前に、無意識的願望としてのカタルシス(浄化、洗滌)を起こし、心身症や鬱や原因不明病になり、ストレス源からの離脱を合理的に図ろうとする。
そこにも逃げ道がないとなれば、さらにカタストロフ(破局、破壊)へと、まるで自然のように歩を進めることだろう。
無意識的に脳を破壊して痴呆症になったり、身体を破壊すべく癌を作ったり、さらには顕在意識をして自殺などの具体的行動を採らせたりする・・といった方向に誘導していくはずだ。(心の反逆は、心の閉塞と抑圧の環境の中で醸成される
痴呆はストレスを軽減できる麻酔の良薬のようなものかも知れない。(本人は幸せな心に回帰となるが、周りはたまったものではない)
酒や薬物依存も同様の意味のものと捉えられよう。(規制と代替薬品による対症療法しか講じられない科学は敗着の学問)
本来なら、ストレスを生む元となる社会構造の改善変化があって然るべきなのに、いったい科学者なる者は何をするためにいるのか・・為政に対して知恵を供出できずにいて、まったくいかがわしい存在と言うしかない。
改善の変革ができないなら、また意識が希望を失うことにもなり、個々人の心の病態もよりひどいものとなるだろう。(そのとき、もしも世界にカタストロフが生じたなら、こうした人々は逆にのびやかになる可能性を秘めている。平常に慣れた人々がパニックになっているようなときに、どうなるか見ものだ。にこにこしていたらキモイだろうな。いや、どうあれ、冷静な人がそのときこそ必要になる)
さて、個々人の意識が人類全体の意識として集合して、集合無意識を形成するという認識で正しいだろうか。
相手が集合無意識となれば、雲を掴むようで理解困難かもしれないが、個々人の場合の拡張的相似像としてなら測ることは易しかろうと思う。
日々のストレスと閉塞感が上がってくる集合無意識の器があるとしよう。集合無意識も生命のようなものなら、器の中を洗い流したいというカタルシス願望をそこに抱くことだろう。
それは、まだ顕在化しない形で、アラームのようにして出てくる。
まずは模擬(代償行為としての予知夢、映像的シミュレーション化、科学者などによる未来予想)として、精神感応し易い仲介者をして警告を発せしめ、個々人にフィードバックするわけである。このままでは危ないから、何とかせよと。(ジュセリーノ氏の助言者とは、集合無意識である可能性がある)
もし効果がないなら、集合無意識はついに自己治療の道を模索するだろう。自然の猛威で、原因を取り除くようなことが出てくる。ここまではまだカタルシス(浄化)の段階と言える。
だが、それでもだめなら、ついにカタストロフ(破滅)へと歩を進める。人類の想念をそれ以上収容できなくなって、集合無意識自体を閉ざすべく、人類を滅亡させるカタストロフを引き起こして、自ら死を選ぶわけである。
刺々しいストレスが浄化されることもなく、無意識の中に鬱積する一方であれば、しだいに復讐心のようなものとなり、カタストロフへと道をつけていくと言い換えてもいい。個々人の心理の中で起きる変化が、集合無意識にも起こる。(こんな大きなものに痴呆化されたらたまったものではないとは思うが、すでに人類は半痴呆状態に陥っている。でなければ、為政者に悪魔を据えて平気でいられるはずがない。人類それ自体が生態系にとって癌と化したのは、すでにカタストロフの過程に入っているからだろう。そうなれば次は、自殺するのではないかと推測が立つ。戦争を痴呆者の間に起こして、全滅を狙うというわけだ)
そのいっぽうで、社会的カタストロフの先に解放的未来ありとする、古代から連綿として蓄積された潜在的願望があって集合無意識の大きな一翼を担っている。それはまるで冒頭に述べた原初のよすがを投射しているかのようで魅惑に満ちている。そう。そこに我々は戻りたかったのだ。そこに真の幸福があったと、心のどこかに記憶しているがゆえに、心が強力に渇仰しているものであった。
だが、その話は渇仰する集合無意識が作り上げた幻想とその増幅作用ではないのか? 
この夢のような理想がもう一方から牽引している。とすれば、カタストロフ願望とこれの両者が合力して一足飛びに具体化させてしまうことにもなるかも知れない。
何も人々の鬱積した満たされぬ思いだけが、破局の引き金になるのではない。恐ろしい自爆装置のような条件付けを、人類は初期の頃から負ってしまっていることも考え合わせねばならない。
集合無意識も、人類の思いを集合させて、その解放的未来を夢見ているかのようだ。その中味を誰かシミュレートしたことがあるのだろうか。
集合無意識が臨終をかけた最後のご奉公として、確率的に量子が稀にとんでもない飛躍をするように、未知の扉を開く者が出るのかも知れない。
我々は、未体験ゾーンとなることを覚悟して臨みたい。

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