森の奥の講釈

いや、もしかすると早晩、あの世に行かねばならないとも限らないので、書き置くべきことを手短にしておきたい。
何から話していけばいいのか。まったく骨の折れることである。自分の中には、丸い毛糸の玉のように、すべてが一塊になって詰まっているのに、説き明かす段になれば、言葉を選び、文章の組み立て方を工夫し、誰にでも理解できるように仕立てなくてはならないのだから。こんなことをしていたら、生業も何もあったものではない。時間つぶしの石つぶし。それこそ早晩にこの世から撤退だ。
しかし、あらゆる方面から伝え聞くのは、末法思想の、ではなく終末思想の数々だ。特にものすごい衝撃を与えたのは、かのジュセリーノ予言だった。はじめはUFOを目撃したときのように、珍しさとほんものをついに見たという感動で、私の心もずいぶんと饒舌になったものだ。しかし、UFOにも同様のことが言えると思うが、多くは用いる側の問題によって、”両刃の剣”性が生じてくること。単に人の心に根ざす破局願望によって修辞を受けてしまうだけなら、予言者の意図するところとは乖離することになるだろう。かといって、それを知ることで、知らない者よりもなおよいポジション取りのために、優越感をいたしながら、積極的関心を示すといったことも、如何なものかと思う。
かつて、今から約千年前に、京滋を彩ったのは末法思想だった。思想的下地のあった時も時、飢饉や疫病の蔓延による死体累々、さらには放火などが日を分かたず起きて、いっそう終末観をかきたてていた。巷には極楽へのアセンションの道しかないといった話も溢れていた。政治は乱れ、勢い台頭してきた武力集団による国取り合戦が開始されることとなるのである。そんな中に民衆は、徴兵と徴税にあえぎながらも生き延びてきたのだった。すでに日本の国は先轍を一度踏んでいる。その間に、もしかしたらマヤ族のように突然民族ごといなくなったといった話も、もしかしたらあったのかもしれないが、少なくとも言い伝えでは、死体累々となって、霊魂になってアセンションを遂げられたのだろうということである。それもそれでよい。昔人はみんな霊魂になってから、お疲れ様とねぎらわれたに違いないのだ。
さて、今は今で、同じような状況にあろうかと思われる。要は、残された時間はさほどなさそうだということ、特に私のような老境にある病態者には、いっそうそれは諦観とともに、時間の使い道を絞らせることとなる。
果たして、人にとって真実と言えるかどうか。私には真実でも、人には人の道に花は咲くもの。成果も自ずと異なるものであり、またそうでなくてはならないものである。
その人と同じでなくてはならないなら、その人の真後ろからくっついて歩けばいい。だが、そんな人にはお目にかかったことはない。つまり、人はみな異なっているから、すごいということだ。
さて、そういう前提から話すとなれば、私も少しは気楽になれる。多少の文章のミスも、咎められることはあるまい。また、最もだいじな伝えるべきことが、多少間違っていても、読者の良識ある判断と責任のもとに・・という言辞が通用することにもなろう。
いや、ほんとうに、私の勝手に独りよがりしている仮説であり、科学の仮説ともまた違って、証されぬことの”うんこ”をどんどん積み上げていって、一山築いて、ご覧あれ黄金の宝の山だと言っているようなものかもしれない。そのあたりの心の葛藤をきちんとクリアーしてこられたお方にのみ、話すべきことであるに違いないものである。
いっそすべての私の仮説を読み通し、うんこれはなかなかのいいうんこだと理解していただいた方にのみ、付け加えるべきを加えることにしたいが、如何だろう。
森野奥人論・概説
① 大前提として、超宇宙を含む時空の概念がある。これは「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」に書くように、万象万物の根源は、神の言語で作られたプログラムであり、それを実行するプロセッサー的存在によって実行され、演算結果が観測及び認識されて、現象が生じているということ。現象は、すべてプロセッサー内で起こる心象であるということである。
プロセッサーは、意識(有情)の数だけ無数にあるように見えるが、これもプログラムにおいて記載されているだけで、唯一者ですむということも重要。
こういうことから、世界は、「唯一者・梵天の見た夢」という解釈ができる。無限の多様性は、世界の終わりと同時に、梵天の覚醒の中に帰一する。
古代に仏陀は、自らの心の内の地面に穴を掘って、どんどん掘り進み、ときおりヒスイや金、水脈を掘り当てながら、それは自分に相応しくないと、とうとう地底の核にまで達して、そこから戻って、世界とは何であるかについての衆生の教化に入った。その努力は、人一人が一生かかってやれるすべのものではない。ものすごい輪廻の果てに、見出した宝であったろうと推測される。何もない当時において、ここまでのことが達成されたのである。
だが、今の時代は、自然に歴史の頂点に我々を立たせてくれただけでなく、その窮極の爆発的開花を通して、文明の利器を生み出し、天にある術宝を、地にもたらしている。
天にある如くが地にもある。地にある如くが天にもある。これほど天と地が近くなった時代もあるまい。それによって、地が病む姿が天にもあるのだろうと知ることもでき、天の七宝が地にも等しくもたらされるという理ともなるわけだ。
すばらしい稀有な時代に今、遭遇している。ありとあらゆる情報の中に、あなたに合った啓発が潜んでいる。それは遺伝子の願いだったかもしれない。
一巻の人類史を刻むプログラムの最後に、いったいこのマトリックス主催者が、何も仕掛けずに終えていようか。テーマがあって、プログラムあり。たとえ邪神の手になるプログラムであっても、その考え方に間違いはないだろう。
② おそらくこの宇宙に限ってのみ適用されている歴史(展開)のパターンがある。それを、「古事記の真解釈」から悟っていただきたい。
仏教で言うなら、劫というのがそれだ。ひとつの宇宙にテーマを持った如来がいて、全体のパターン付けをしているのだ。
このパターンは、おそらく、この宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史、人や動植物の一生などに適用される、万象必在の一年生草本的パターンであろうと推測される。
そのパターンの中で、最も輝かしいのは、爆発的開花期である。そこに、文明の、生命の、最大限のエネルギーの発露がある。見る者にいちばん見せたい「花の」時代であろう。ただし、木の花の咲くが如く、堪能できる期間は極めて短い。
それまでに、種子を蒔き、芽吹き、茎を太くし葉を茂らせ、やがて外から見る者にも期待を抱かせる蕾をつけるという緩慢地道な過程が、どうしても必要だった。
また、爆発的開花の後に、実をつけるという過程も、同等以上にすばらしいものだ。そして枯死期を迎える。そこには、ごく自然の、この宇宙の法則が見て取れる。こんなところで、ドリアン・グレイになる必要はない。
そこに幾度も幾度も輪廻して来なければならない魂たちは、この歴史の成就を最初から最後まで見届ける役割も担っている。たった一度の輪廻で分かろうとするほうがおかしい。
しかし、一度学んだら、二度目を学ぶ必要はない。地球人類史を卒業していかれたらよい。
③ 人間というものは、孫悟空のようなもので、どうしても規則の殻を破りたがるように作られているらしい。おそらく、実験的に試作されたに違いない証拠はいくらでも見出せるはずだ。
そこで、マトリックス主催者は、これを十把ひとからげで規則どおりにしようと、神の計画推進者、つまりエージェントを歴史に投入した。
その功績を示したのが、「古代日本中東思想渡来考」だ。
歴史の早い段階で神話を人類に付与し、この通りに実現するように歴史を誘導した。いわば神話は、呪術性を帯びた時計仕掛けの歴史顕現システムなのである。その神話も今やクライマックスとなっている。
④ 誰も知らないかもしれないが、種族の歴史を規定しているのが「神話」である。これは動物などで言い換えるなら、遺伝子にも相当する。しかし、人間の場合は、遺伝子だけでなく、より可変性を持たせられて、神話によって再構築も可能となっているのだ。これを変えることは、その通りに歴史を誘導することにも繋がる。だから、古代の指導的預言者たちは、こぞって自らの意に沿う神話に作り変えている。それが未だに訂正されることなく、成就のときさえ迎えようとしている。歴史を動かすのは、科学などではなく、神話の呪縛なのであり、科学もその誘導の結果として出てきているにすぎない。そして、終局をもそれによって演じさせられるという、無力さを呈しているのである。
以上のようなトンデモ話にあなたは耐えられるかな? もしだめなようなら、今後の記事は除外して読まれるか、それとも別のサイトを探されたい。しばらくは、この線でいくつもりだから。
つづく
* これは一個人のする独自の素人仮説であり、話には索引することはあっても、いかなる科学にも宗教にも属するものでもないものであり、またこれによって賛同者を得ようとするものでもないことを注意しておきます。
あくまでも、読者の一参考になればとの思いでしかなく、良識ある判断でお考え願います。また、これによって生ずる責任のいっさいを当方は負わないものとします。

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