日本の鬼の歴史的考察

- 鬼の語源・由来 - (インターネット上にある「語源由来辞典」によれば)
鬼という漢字を中国では、「魂が体を離れてさ迷う姿」「死者の亡霊」の意味として扱われていた。
日本では、奈良時代に「鬼」という字は使われているが、魔物や怨霊(おんりょう)などを「物(もの)」や「醜(しこ)」と呼んでいたため、鬼も「もの」「しこ」と読まれていた。
鬼が「おに」と読まれるようになったのは、平安時代以降。
姿の見えないものを意味する漢語「隠(おん)」が転じて、「おに」と読まれるようになったとする説が、平安中期の「和名抄(わみょうしょう)」にある。
ここで重要なのは、《鬼が「おに」と読まれるようになったのは、平安時代以降》とされていることです。それは酒呑童子を退治するきっかけを作った陰陽師の全盛期であります。
おそらく新説でありましょうが、ここに超常的見地から行った一説があります。
日本古来の「おに」の語源から、酒呑童子のお家柄に至るまでの新説であります。
まず、鬼(おに)の語源は、福井県若狭地方に名残る「遠敷」にあるのではないか、ということです。
「遠敷(おにゅう)」は古語で言うところの「おにふ」であります。これは歴史家の説にもありますよう、「お・に・ふ」すなわち「生・新・降」の転であり、意味としては「生命の新生」もしくは「新生の生命力の降下」であろうと考えられます。
事実、その地方を「若狭(わかさ)」と称し、「若々しさ」の意味が見て取れ、しかもその地は奈良のお水取りに先立つ、お水送りの儀式が執り行われるところであり、その地方に篭められた期待が、都に新生の息吹をもたらす神聖な場所としての機能だったと考えられます。
どうしてその地が都への生命力賦活の源泉とされたかについては、広域地図を見れば直ちに分かるように、都の真北に位置することが挙げられます。
何と、この生命力降下の入射角は古代三大都市(平安京、奈良、飛鳥)に対するものとなっております。つまり、畿内の古代都市に共通する呪術的な生命力賦活の機能場となることが、予め決められていたのではないかと推測されるのです。
さて、このとき執り行われていた呪術的祭祀とは何であったか。
ここに一著があります。⇒古代日本中東思想渡来考
その中に、推敲の詳細は載っているのですが、要点をのみ申しましょう。
1. 執り行われていたのは、「鬼道」であった。
2. 「鬼道」は後に、常緑樹に三枝に祭具を取り掛けて行うすべのものに変わったが、当初は「生命の樹」の十のパートに何らかの象徴を見立てて行うものであった。(十種の神宝が対応したであろう)
3. 十の部局を使う祭祀とは、古代中東の「カッバーラ」の典礼祭儀であろう。
4. 古代皇室によって鬼道が重用された結果が、地理的に数十キロから数百キロにも及ぶ大域的祭祀の構図となったのであろう。
祭祀は、その源流が古代中東由来のものであり、旧くは魏志倭人伝に書かれる「鬼道」と称されたものであろうと解せます。
「鬼道」は、古代皇室の源流である卑弥呼が行っていた伝統的祭祀であり、後の日本書紀などにも書かれるよう、常緑樹を根ごと掘り取り、上中下の三つの枝ぶりに別けて、それぞれの部位に玉、鏡、剣を取り掛けて執り行われるすべのものと解せますが、源流はカッバーラの「生命の樹」すなわち常緑樹に十の部局(セフィラ)を見立てる儀式であっただろうと推測されます。
ニギハヤヒの頃には十種の神宝(とくさのかんだから)を用いたものも、政権が委譲されてからは皇室の独自色を出したものか、三種の神宝によるものへと変遷を遂げたといったことでしょうか。
畿内の広域に渡る祭祀の遺構は、まぎれもなくカッバーラのそれです。
ゆえに、飛鳥にまず拠点した古代皇室の都市造営にかかる設計思想の底流に、カッバーラがあった。むろん、皇室はその意図を知らなかったかもしれないが、その場合は女房役の補佐官たる物部氏が「裏祭祀」を握っていたかも知れません。
さて、推理はさらに酒呑童子のお家柄の役割も及びます。
1. 酒呑童子の先祖は代々、「おにふ」の祭儀に仕えていた神官であった。
2. 彼の先祖は、近畿の広域に配置された各部局に配置されていた。もしくは大江山の部局専属の神官だったかも知れない。
3. 彼らは誰言うともなく、「おにふ(おにゅ)」と呼ばれていた。あるいは、典礼儀式そのものが「おにゅ」と呼ばれていたかも知れない。
4. 陰陽師の仕組んだ罠にはめられて、酒呑童子は討伐されたが、醜怪な化け物を示す「鬼」の漢語に「おにゅ」つづまって「おに」の訓が当てられるようになったのはその頃である。(それまでは「もの」や「しこ」であった)
5. 古代には、祭祀そのものの壮絶な覇権争いがあった。中国伝来の仏教しかり、陰陽道しかり。古来の祭祀がこの時点でひとつ火を消したというのが真相か。
6. 古代祭祀で絶やされずに残ったのは、神道、修験道であった。前者は皇室が擁護した。後者は弾圧を受けたが、山岳に影を潜めたゆえに助かり、後に仏教や神道と結びついて残った。
7. 酒呑童子家は累代、混血を避けて、中東から渡り住んでいたと解せる。まれ人が祭祀に重用された事跡が多々あることも、彼らの家柄が混血を嫌った伝統的神官であったという理屈となる。男で成人してもなお、外国人風の見目麗しい女性的風貌であったために「童子」とされたのかも知れない。
8. 酒呑童子は客人があると「角」を取って出迎えたというが、カッバーラの伝統的装束のヒラクリティーをつけていたと解せる。修験者も源流は同じであろう。
9. 酒呑童子の居場所は、西の部局。酒呑童子の前身の伊吹童子がいたとされる伊吹山は、若狭遠敷をおいて、東西対称位置の部局に相当する。酒呑童子を化け物に仕立てるために作られたと思しき伊吹の弥三郎伝説によれば、彼は鬼門の方角伊吹山から比叡山にも向かっている。これは酒呑童子の行跡を辿ることに意義が見出せ、彼は十の部局のうち少なくとも三つを巡行していることになる。「おに」の家柄は、大域的な生命の樹の図柄の十の各部局に配置されていただろうと展延的に推測される。
簡単ではありますが、以上のような説を持つに至っております。
畿内広域的カッバーラの部局(セフィラ)の測定位置には、元伊勢たる大江町の皇大神社を用いています。
酒呑童子伝承の咲き誇る旧・加佐郡大江町が本年開始より、三和町、夜久野町とともに福知山市と合併し、新しい「福知山市」となりました。
その誕生記念式典として、平成18年12月2日(土)午後1時30分より、
福知山市街の「サンプラザ万助」において
鬼シンポジウムinふくちやま が開催されます。
また、その後に、「第12回・世界鬼学会総会」が行われる予定。
問合せは、大江町の「鬼の交流博物館」もしくは「福知山市役所大江支所・地域振興部門」へ。

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