奥人流神論 絶対幸福以外はすべて欺瞞(マーヤ)

私の提唱するプログラム時空論からすれば、この世はむろん、あの世(霊界、天国、地獄、その他)に至るまですべて映画マトリックスでいみじくも表現されたようなプログラムが元になっていることになる。
自我を持ち、我考えるゆえに我ありを具体化せしめている実体は何かと言えば、コンピューターの中で起きている演算とその扱いの結果に他ならない。
たとえば私がこの刹那において意識している最前線こそが、ただいま大きなプログラムの中の手続き群を励起し演算しその結果を観測している現場である。
そのようなコンピューターはいくつあろうと構わない。同時並行的に別の部分で実行されていようがいまいが構わない。プログラムは初めから「ある」ものであり、そのプログラムを観測している者が一人であろうがなかろうが構わないわけである。
あたかも多人数で同時に同じ歴史を観測しているように見えても、そう見せている欺瞞のプログラムを見ているだけと考えてもいいわけだ。60億の人間はじめ無数の有情は、走馬灯の絵のようなものである。
この考え方の先は恐ろしい倫理観に繋がると思われる向きもあるかもしれない。
もしかすると魔術に傾倒していたヒトラーは、そうした秘密を知ったゆえに無慈悲になれたのかも知れない。だがそれなら、プログラムの性質を知らないことにより起きた暴挙である。その性質を知るなら、戦争はできないし、できたとしても大義のためであり、戦勝した暁には理想国家への舵取りもしくは指針を託す行為が続いていたはずである。が、彼は敗者となり、死して行為の結果をすべて地獄へと持っていかざるを得なかった。
天上天下唯我独尊とは釈尊の生誕時の言葉という。生誕時は誇張しすぎとしても、彼が生涯のうちにその境地に至ることができたのは確かであろう。
彼は当時のヒンヅー哲学を学んだことであろう。そこにヒントを得て、瞑想生活の中で自分の本身を見つけ出したようである。
自らの内にあるダルマを体得して仏の境涯に達したのだ。
ダルマの体はまばゆい光そのものであった。
現実はマーヤのベールにダルマの光が照射して生起しているものであることを、彼は体験的に知ったのだ。
三界は唯心の所現。これは形あるものを求めてマーヤの罠にはまってしまう、心のどうにもならない性質を語ったものである。
五蘊諧空。もとはといえば我々の持つ観測と認識機能に起因するのだが、それすらもマーヤに属していることを語ったものである。
我々の見聞から思考にいたるまで、心の動作のひとコマに至るまで、マーヤというプログラムに載った架空の出来事なのだ。
では何が実体か。それはダルマであると釈尊は言う。
それは生命エネルギーであり、光であり、空であり、至福であり、他と自己の区別のないものである。
そのエネルギーがマーヤのフィルターにかかったとき、色や形が生じ区別が生まれた。そして自意識が生まれた。それゆえ、この根源エネルギーのことを意識原理ともいう。
意識原理は純粋無垢でただ利用形態を賦活するためにのみ働いている。
しかし、それが超大型のコンピューターであったとしたら、誰しも興ざめではないだろうか。
誰か言う。誰しも神へと向かう進化の課程を踏むために、この地上の経験が必要なのだと。あらゆる諸悪業にまみれ、そこから神性を勝ち取っていくことに意義があるのだと。
だが、それは真実ではなく欺瞞である。ダルマは誰しもの本性であり、誰かによって定義されるような神を超えた唯一の真であり、誰しもの内奥で意識を賦活している存在である。どんな属性で飾られるものでもない。相対的幸福からかけ離れた絶対幸福である。そこに至る課程や歴史がどうして必要になる?
その発想自体が欺瞞なのだ。
無明縁起。このエネルギーを邪な理由で利用しようとした先駆的科学があったのだ。科学者がどんな奴らかは姿を見せないために分からないが、もっともらしい理由付けを行い、マーヤマトリックスにエネルギーを導入して縛りつけているのである。
この宇宙は250億年が寿命と言われていたか。そうならば、それがこのプログラムのマキシムサイズである。だが、それを伸張させようと様々な実験を繰り返しているのも彼らである。
永久性と全能性の獲得を、プログラムの進化を通して果たそうとしているのである。だが、ダルマは定義されるものではない。それを定義して達成しようとするところに矛盾と限界がある。また、ダルマはそれ自体プログラムできないものである。
トナールはナワールに憧れるが、敵わないと見て砦を作ってナワールの一部を閉じ込めて使役することで鬱憤晴らしをしているのである。
そのようなところから生じる、晴れがましい未来を約束する神は、もとより欺瞞の中の存在であり、信ずるに足りない。プログラムは、確かにそうなっているのであろう。だから、地球の危機とそこからの掲挙がありうるのだろう。だが、選民となって輝かしい未来を得たとて、それは相対幸福にすぎず、時移ろえば影も移ろうであろう。
ダルマによって賦活された我々の意識は、相対時空にあって受難の状態にある。だが、ダルマは常に至福の時にあって、科学者のすることに異議を差し挟もうとしない。
それゆえ、救世主が必要になる。
救世主は、現今の神と対極になくてはならない。
ゼウスに対するプロメテウスのように。

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