100禁 死に赴かんとする人に贈る三種のガイダンス+Option

突然、何の脈絡もなくこのような話題が出てくるのも、超常的な嗜好かと思うのだが、如何か。
というのも、かねてから創作作品の紹介をしておきたかったときに、いきなり先の未来の展望もなくしたような話題を扱うようになり、ならばいっそ死んだつもりになるのも逆転の発想でよかろうかと思ったしだいだ。思いっきり暖かい死後の世界をご紹介したくなったというわけである。
最初の話は、お年より向け、信心深い仏教徒向けのガイダンスになるかも知れない物語だ。
不思議体験豊富な祖母により、幼い頃に教えられたあの世に行ったときの話で、多少は祖母の夢体験も入っている。
祖母から聞いたときには、その筋書きの構成の見事さとビジュアルなリアルさが私の心を魅了したものだった。
その幾分かでも、物語に篭めることができたかどうかは知れない。
たつえおばあさん(奪衣婆異聞記)
次の話は精神世界に興味する人向けの童話だ。
多少のガイダンスを果せるものとなるなら幸いだ。
私は若い頃、夢でUFOを見ることが多かった。そのときに決まって出てくるのが白球型UFOだった。
夜空の星の間をすいすいみずすましのように泳いでいるのだった。
私は彼らを友達であると思っていた。
というのも、現実のUFO観測会で、友達になってくれるかというテレパシーを彼らに向けて発した2,3秒後に、視野のど真ん中で姿を捉えてしまったのだから。
それ以来、私のUFOへの思いは友好的なものとなり、夢の中にまで出てくるようになったのだ。
夢の中に出てくるのは決まって白球型UFO。まるで星の精のようだから、「星の子」と呼んだ。
そのときに作った童話がこれだ。
星の子
やがてそれが本当に存在することを、UFO撮影をするようになって確信することとなる。
あの夢に何度も出てきた白球型UFOがいくらも撮影された。
それを私は「星の子UFO」と命名した。
夢のときの動きほどダイナミックな円舞は描かなかったが、それでも軌道は円舞の如きものだった。
いちばん最近には、2005年11月のGの嵐のロケ時に現れた二十機ほどの球体UFO。
ZAQのひよこのようにシャイで、見つかったと知ると、そそくさと山陰に隠れてしまった。
たまたまテレビカメラがうまく撮影していて放映された。その正体はやはりあの星の子だった。
以来、撮影をやめて今に至る。
ちなみに、よく似た表現の「星の王子さま」は、つい最近になってネット上でタダ読みさせてもらったところ。いや、感動ものだった。たちまちサン・テグジュベリの信奉者となってしまった。
次の話は学究肌の人向けのガイダンスたりうる随想だ。
人の意識の根底に潜在する、意識の辿る原型的手続きを明らかにしたもので、もしかするとここから一歩踏み込んだ世の真実をも読み取ってもらえるかも知れない。
死の科学
話はチベットの死者の書を叩き台にしているが、基礎的な概念は、ユニークな時空モデル概念で与えている。
それから約二十年の後に、同じ発想による映画「マトリックス」が登場して、我が発想に間違いのなかったことを確信した。
決して映画ほど陰謀的でなくとも、類似的なイメージングを通して、世の裏の真実が理解できるかも知れない。
超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念
(コンピューターモデルでサイ情報系を観測する意識の仕組みをシミュレートするため、
UFOの動作原理、夢、催眠、死後の意識存続などの未知の問題に幅広く応用できる)
そしてもうひとつオプションとして掲げるのは、拙時空論を基にした即興的仏教説話である。


拙時空論は「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」と名付けている。
つまり、一般的に世の中に知られているモデルによって全宇宙が言い表せるという、何とも稀有壮大な概念なのである。
量子物理学の統一場理論など大したことではない。
超ひも理論?それによって世の中の苦悩が救えるわけでもない。
人は頭の中も腹を空かせているのに、理解不能の独りよがりを与えられても、何の面白みもない。
ただ、探求欲を深めるだけ深めて、ほとんどの人に対してはアウトプットもあいまいにして、
結果的に危ないものばかり産出し、ほれこれが科学技術だと言われても、人類にとってのデメリットしか見えてこない。
利便な道具が生まれた?それは良かった。その代わりに失うものも生まれた。健康という最大の幸せが。
それより、どうだ。この超時空モデル概念は。
人がおよそ関わらねばならないこと全般にわたって、どういうことであるのかの解釈が立つ。
その理論を、良寛さんが子供たちの輪に溶け込むようにして教えてあげよう。
ほい。そこのお寺の小坊主さん。こっちにおいで。
なに、毎朝毎晩勤行に励んでいるのだってな。
そうか。般若心経か。どこでも定番にしているお経だね。
漢字で書かれているが、意味がさっぱり分からない? 
そうだな、今の業界は音の響きに言魂があるとか言って、それ以上のことはなかなか教えようとしない。
すらすら読むだけで、仏様に通じているのかな、だって?
よしよし、それなら、特別な言葉の意味だけでも教えておいてあげよう。
小坊主さんも、学校へ行ったら、パソコンの授業を受けるだろ?
ひととおりのことは分かるよね。
なら、話は早い。
色即是空。空即是色。
空とはプログラムのこと。
色とはイメージのこと。
つまり、イメージはプログラムの実行された結果であり、
プログラムこそがイメージの元になっている、という意味なんだ。
我々の思いはね、ちょうどコンピューターがプログラムを実行して、そこから結果のイメージを得ているという具合なんだ。
周りの美しい景色。それも、そういうプログラムがあって、我々がそれを実行してあたかも外界に景色があるように思い込んでいるんだ。
だが、実際には、ぜんぶ自分の心の中で行われていること。
孫悟空が、お釈迦様の掌の上から抜け出そうと、どんなに速く、どんなに遠く飛んでも、結局出られなかったというのは、
孫悟空が一生懸命に運動していたのが、プログラムの中だけに過ぎなかったからなんだ。
彼は宇宙の果てから向こうの果てまで飛んださ。
だが、宇宙のすべてがプログラムからイメージされたものに過ぎなかったんだ。ほんとうは彼は一歩も動いていなかったのさ。
心ある神様なら、こんな小さな掌に収まる卵のようなものの中に、全宇宙の歴史が入っていると教えてくれるだろう。
そうさ。この中にすべてが納まっている。そんな卵は他にもたくさんある。その中のひとつに、お前も私も遊んでいるのさ。
ほら、パソコンに卵をセットしてみてご覧。そして、パソコンから出ているイヤホン端子を耳につけてご覧。
するとお前は、その中に収録されているゲームプログラムのどこか開始点の一つから、臨場感あるゲームに没頭することができるだろう。
むろん、プログラムを実行しようという動機がなければ、ちょうど電源の入っていないパソコンといっしょで、何もないというわけだ。
もうひとつ言っておこう。
五蘊皆空。
五蘊とは五種類の心の作用のこと。
皆空は、これらすべてがプログラムだというわけなんだ。
つまり、心の赴くままの一つ一つの思いですら、プログラムに書かれていたということ。
だから神様は、私に知られずに心を少しでも動かすことはできない、とか、人はすべて操り人形に過ぎないと仰るのさ。
ゲームは面白いか。
格闘ゲームが面白いって?
男の子だねえ。坊主にしておくのはもったいない。
そうそう、お前もこの世界に来るまでに、そのようなゲームソフトに打ち興じていた。
そして上達したので、腕試しにと、臨場感ゲームパークに来たというわけだ。
だが、ここでは契約どおり自分がゲームのキャラクターに成り切らなくてはならなかった。
叩かれたら痛い。痛いから、相手を先に叩いて倒す。それはそれは、叩かれてゲームオーバーにはするものかと、
一生懸命にがんばっただろう。ゲームの中で死んで、悔しくてまた捲土重来とゲームに生まれた。
そうしたゲームを繰り返すうち、お前は元あった自分を忘れて、キャラクターが自分だと思うようになった。
そしてようやく、戦うばかりには嫌気が差し、平和を求めて長い旅を続け、とうとうここにやってきた。そして今さっき、疑問を発した。
よくやってきた。我が息子よ。
そろそろ私も元の故郷に帰ろうと思っていたんだ。いっしょに、どうだ、行かないか。
昔は適切な比較モデルがなかなか見つからなかったが、今はありとあらゆる秘儀が形を伴って現れている。
真理探究する者は、その中から比較的容易に求めるものを見つけられるようになった。
過去には「空」は定義しにくく、難解な言辞で、その様を伝えねばならなかったと思われる。
だが、今ではたった一言で多くの含蓄を言い表すことができる。
終わりの日近傍ならではの悟りの得やすい環境がここにあると言えよう。